問題点は幾つも見つかります。一個人に金品を渡すことでこのような不正が出来てしまうという仕組みに問題があります。試験結果に対して操作を行ったという話らしいが、そんなことが出来る状態であるというのが根本的な問題。さらに、この程度の人格を持った人間が教育委員会の参事という職務を与えられていたという人事制度が問題。一体どういう判断をすれば、このような低俗な人間が県の教育のトップに近いポジションを得られるのか。この段階で、同じ判断基準で選ばれた人間全ての信頼が完全に崩壊したと言ってもいいでしょう。
当然賄賂を渡したとされるような人間が校長やら教頭やらというポジションに居ることも問題。教委からして腐っているのだから、現場の教師が腐っているのは言わずもがなかもしれないけれど、少なくとも大分に関しては全ての権限を剥奪して、新しい基準で再試験を行った方がいいんじゃないだろうか。
更に大きな問題は、これだけの額の金品が動いているにも関わらず、1年近くもそれが発覚しなかったという事実。内部の監査機構が正常に機能していないということが明らか。今後叩かれて続々と出てくるようであれば、組織として腐っているということを確定しても良い。正直大分だけの話だとは思えない。全都道府県の教委に対して第三者機関の調査を徹底的に入れて、更にその上で不正防止策がどのように取られているかを明確に公表するべきだろう。それが出来ないのであれば、教委と教師は信頼に値しないということになる。
じゃあ、これまでは信頼していたのか? と問われると微妙なところではありましたがね。
まずは119番を使っても問題無いというガイドラインを作成して広く公示することだろうね。そして、ここで言われている非常識119番があった場合、そのガイドラインをまとめた冊子などを渡して、ちゃんと読むように説明した上で不問とする。それにも関わらずまたやった場合は、悪意のあるなしに関わらず実費請求。少し高めの見積もりにしておけば自ずと減っていくでしょう。
そうすれば、シンドイだの話し相手が欲しいだのなんてクダラナイ理由で119番の正当性云々なんてことが問題になることは無くなるでしょう。もちろんガイドラインの作り方にも依ります。曖昧にしか作れないのだとしたら、適当に呼び出されたとしても文句を言うことはできません。
なんとなく「常識」の範疇で的な要件でこれまで来ていたと思うんですが、ここまで問題だと騒ぎ出して、訴訟だのなんだのと言い出すのであれば、まず条件をしっかりと誰でも判るように提示することが第一。それを確実に配っているにも関わらず、無視するのであれば理由の如何に関わらず実費を負担して頂くというのは当然のことでしょう。
何も難しい問題じゃないように思えるんですが、気のせいでしょうか?
これが所謂釣りって奴ですか? って言いたくなる程典型的な内容。好意的に解釈すれば自分に素直ってことなのかもしれない。結局このおっさんの思考パターンは、
「俺が理解出来ないものは皆異常だ 徹底的に排除しろ」
ってことなんだろう。もう少し時間が進んで、このおっさんのようなタイプがあからさまに少数派となった時、多数派を称する異常集団が、こんなオヤジは排除しろと言ってきた時、彼は一体どんな反応を示すというのだろうか。是非、そうですよね私達が異常ですよね。排除されて当然のことですよね。と認めて頂きたいものです。
出す話出す話全部頓珍漢なんだが、その中でも傑作だったのがエロゲーの話。現実では実現しづらい願望を見たそうとアダルトゲームに向かうって、そんなこと言ったら、エロビデオだってエロ本だって、いやフィクション系の物語の全てがこれに当てはまるのじゃないだろうか。なんだってそうだけれど、ある程度の節度をもってやる分には、何をしたところでとやかく言われる筋合いのものでは無い。
限度を超えれば、それがエロゲーだろうが、それ以外の何かであろうが、社会的には迷惑の方に針が振れる行為であるというのは変わらない。綺麗好きの度が過ぎて、一日中手を洗っている奴が居たらそれは社会的に不適合だと言えるだろう。どんな技術でも学問でも芸術でもそれとリアルをはき違えたら全部危険に直結するなんてのも別段ゲームに限ったことではない。なぜ、ゲームだけがスペシャルだと思えるのだろうか?
馬鹿が影響を受ける可能性があるから規制しろ。という理屈は如何なる場合においても成り立たない。その場合影響を及ぼす何かを規制するのではなくて、馬鹿の方を規制するべきだ。じゃあ、どんな馬鹿が危ないかというと、狭い視野で特定の価値観を絶対視し、それ以外のものを排他的に考えて攻撃する。そんな輩が一番危ない。
あれあれ、それってまさに誰かさんのような人間のことを指しているんじゃないのかね?
ある時期から、炊事洗濯等々の家事一切をメイドさんが非常に安価にやってくれることになりました。やってもらうととても便利でした。けれど、それをやってもらったら私のやることは何もなくなってしまいました。とそういう話。そりゃあ、思考も止まりますわな。ITによって不必要な労力や時間を最小限に抑えるというのは絶対的な正義。それによって不必要なことしかしていなかった人の脳がどうなったとしてもです。
で、この対策として5つの心がけが挙げられています。これを見てみると良く判るんですが、つまり何かというと本質を理解すること、物事を構成するということをしなさいってことな訳ですよ。確かにこの心がけはその辺りを鍛えるには悪くない方法かもしれない。けど、結局は意志の問題なんですよね。考えるってのは、誰に言われる訳でもなくても出来る人は出来る。効率を無視すれば訓練の必要も無い。お勉強とは違いますからね。逆にこれが出来ないような奴は、その内機械と同じかそれ以下の単なる消耗品として扱われるだけでしょうね。
脳が怠惰になるのは、あくまでも機械で代替出来る程度のことにしか脳を使っていなかったからであり、それを防止するのに、昔に遡れというのは間違いで、それ以外の事に脳を使いなさいというのが正解。それが出来ない人の脳はどうなったとしても、大した問題じゃないでしょう。
所謂モンスターと呼ばれる馬鹿がどういう基準で行動しているのかが良く判る正直なエントリー。一言で表現すると、「自分及び自分の家族は特別扱いされなければならない」という観念がよく見える。そして、特別扱いされないことに対して、理屈抜きで憤慨出来るという不思議な能力を持ち合わせているのもこの輩の特徴。
で、小児科の医者も居ない状態で、診察して緊急を要するような状態で、医者が専門外であるが故のミスを起こしたら、果たしてこいつはどういう反応を示すのでしょうか。恐らく怒り狂うでしょうね。で、一応診察してみて、状態が悪かったら対応出来ませんと断っても、これまた怒るでしょう。何故か、自分達は特別扱いされなければならないと信じているからです。だから、それが提供されない状況だと文句タラタラになって、なんの罪も無い病院関係者を怒鳴りつけたりする。いっそのこと、歯医者か耳鼻科にでも連れて行けば良かったのにね。
もう、典型的な家族馬鹿って感じです。この手の無能者が親権者になっているような家族の場合、かなりの確率で、この「自分達は特別であるはずだ」という勘違いをしています。だから、周囲がどう思っていてもまるで気にしないし、他人の都合なんかお構いなしで自分の要求を突きつけて来る。だからBlogで堂々とこういうエントリーも書けてしまう訳です。人間が厚顔になれる一番の理由は無知無能であるということですね。
そりゃぁこういう親の元で育てば、ちょっと出世街道から外れただけで、繁華街で虐殺事件とか起こすような子供が育つかもな。子は親の鏡って言う言葉もあるしな。くわばらくわばら。
そこにはセクハラの概念はない。手を握られたとしても仕事だ。上司は女性だ。そこではいわゆる“女”であることは武器にはならない。だから能力評価とは別の、出し抜き、は困難だ。上司が女性だから、セクハラめいた脅迫もまた基本的には、ない。同業種の男性は、帯を結んだり、傘をさしたりと、主に、縁の下の力持ちであることが多い。花柳界で働く男性は、ふんぞり返っていては仕事にならないのだ。
魅力、という商品能力を正当に評価され、あるいは、芸を磨いたベテランはその芸を評価され、女であることを誇りつつ、のびのび働ける。
相変わらず浅い思考でコラムを書く人だ。毎回ネタを提供してくれてありがたいが(笑)
もしそうだとするなら、今高齢者の男達は「輝く高齢」者が多くなるはずなんだが、僕にはそうは思えない。だからセクハラが無い、性別が武器にならない仕事についているからというのは、少なくとも決定的な要因ではないでしょう。性が武器にならないと前置きしておいて、女であることを誇れるというのは意味が通らない。自分の信仰に基づいたえらく都合の良い解釈だなという感じがします。まさか縁の下の力持ちの男達に傅かれているから誇れるんだと主張したいわけではあるまい?
むしろ、輝くことを要求される状態を長く続けているからと言う方がよほど大きな要因なんじゃないだろうか。だから芸能人なんかも、歳の割に綺麗な人というのは多い。であるなら、一般にそれを落とすとしたら、むしろ異性の目を意識して生きてきた女性の方が輝く可能性は高くなるんじゃないだろうか。自分の性というものを強く意識するからこそ輝くんじゃないだろうか。女であることを意識しているからこそ、女であることに誇りを持てるんじゃないだろうか。
結婚して落ち着いてしまって女であることを捨ててしまうから輝かなくなるんじゃないだろうか。単に馬車馬のように仕事に没頭したとしても、現在の爺様程度にしか輝けない。まさか今の爺さん達に輝く魅力を感じているという訳ではないんでしょ?
何れにしても、この内容ではネタ以上にはならない。むしろ、こんな考えだから女は…って言われるだけでしょうね。女性の地位を向上させたいなら、もう公的な場所で発言しない方がいかもしれませんよ。
結局、友人という言葉の定義の問題であるような気がします。この人の言う友人とは、まぁ知人+α程度という認識ということでしょう。そういう友人関係を求めるなら、という前提が付けばこの内容は正しいでしょうね。血縁、経済、肉体関係が無ければ、前提の無い関係に落ちてしまうという考え方に悲しさを感じます。精神的な部分を全く無視しています。
例えば僕の場合この程度の関係だと友人の末席レベルですね。本当に信頼できる友人であれば、こんな薄っぺらい関係ではなくて、もっと深いレベルのものを求めます。はっきり言って利害関係を除けば、家族などとは比較にならないほど重要な関係です。仕事を一緒にすることもなんら問題は無い友人も居ます。というか、仕事関係から友人関係が成立しているので、仕事を一緒にすることはデフォルトです。
勿論全ての友人に対して、同居したりが可能だと言うつもりはありません。それは恋人として適切な相手と、結婚相手として適切な相手が必ずしも一致しないのと同じでしょう。こういう感覚で友人を語る人が、友人は多い方が良いとか考えて、SNSで撃墜マークを増やしていったりするんでしょうね。本当の意味での友人なんて2桁も居たら、相当シンドイ対応が必要になってしまうと思いますよ。なんで、本当に友人と呼べるような人は、大抵片手程度の人数で、それ程頻繁にベタベタすることも、する必要もありません。それがお互いの負担になると判っているからで、そうしなくてもきちんと関係が維持できし、それぞれの生活に対する負荷を変に上げることを防ぐ為でもあります。そういう意味で、年中無休が良いというのは判らないでもないですが、ちょっとニュアンスが違うんじゃないかなぁという気がします。
「親はモンスターじゃない」それはその通り。モンスターなど存在していない。モンスターは作り上げられているだけです。猿に膨大な権限を与えれば、それはモンスターに変貌する訳です。単に無知蒙昧なだけであったとしても、それに権限を与えれば、恐ろしく危険な訳です。つまり、この問題を解決するには、
親権を得るには資格制を導入し、血縁と親権を切り離す。教育に対しては相応の対価を与え、結果に対しては責任を求める。
これで解決します。旧来の家族制度を前提とした親権制度がモンスターを生み出しています。馬鹿には馬鹿と、無能者には無能者と言え、その能力に応じた分の権利のみを与える。こんな基本的なことを守るだけで、馬鹿や無能者が不釣り合いに得た権利を振りかざして、不条理な要求をしてくるということは無くなるでしょう。
ついでに言うと、親権者のレベルが上がるということは、教師の側も今のままでは当然通用しなくなります。馬鹿教師や無能教師は即座に排斥されることになるでしょう。彼らは親権者以上のプロフェッショナルであるべきなのです。親権者が馬鹿や無能であるから、それに毛が生えた程度の教師も許されましたが、そうでなくれば求められる仕事の質が変わるのは当然です。
良い循環で回す為には、現在の淀んだ循環の根元である家族制度を破壊するのが最も効果的です。
「メーカーは“偉大なる将軍様は絶対”と言っているのと同じ」
あーあ、またやっちゃったよ椎名某。大体カスラックと並んで出てきてる段階で、権利者と称する連中が消費者を見ていないというのが明確に表されているじゃないか。その時点で、搾取企業の下っ端扱いされているってモロバレ。自称権利者の語る内容に説得力を感じられない。
MDや録音用CD-R/RW、録画用DVD-R/RWの時代でもタイム/プレイスシフトの使い方はあった。それがHDDになったから補償金は必要無いというのは合理性が無く、根拠を示すべき
HDDと一口に片付けようとするから訳が分からなくなる。ポータブルプレイヤーに対して一定の金額をかけるというのは理解できなくもない。けれど、例えば据え置きのHDDレコーダーに対して同じ発想を持ち込もうとしても、それはMDやCD-Rと同列には扱えない。更にはHDDというのは汎用品であり、必ずしも著作物を処理するとは限らない。だからDVD-Rもデータ用と録画用に別れている。それを一緒くたにはできない。メモリレコーダーを構成しているコンデンサやらICやらに課金しようとしているのと同じレベルだ。こんな主張の方にこそ、合理性は全く無い。根拠を示せという前に、少しは考えてみろと言いたくなります。
「ここまで常軌を逸している相手と突っ張り続けることと、そうでない選択肢を比べた時、前者にはあまり生産的な要素が感じられなかった。もはや当事者としての能力を持つのは権利者のみ。周りの迷惑を顧みず立場を貫いても誰もほめてくれない。これが権利者の見識であると申し上げたい」
s/権利者/権利者と称する集団と搾取企業以外/g
としてやると、綺麗に事実を表すことができます。つか、お前がこれを言うのかって思える位の厚顔さだ。はっきり言って知能障害か認知症にでもなったんじゃないかと思える程の酷さです。つか、当事者であるとまだ本気で思っているとしたら、終わっている。
で、最後の絞めはカスラックの登場です。流石カスラック、期待を裏切らない暴走っぷりです。
「補償金がなくなれば、創造のサイクルが生み出す利益に、メーカーがフリーライドする状況になる。知財立国を掲げる日本で、上場し、優れた機材を輸出するメーカーが、単に『自分だけがいい』ということでいいのか。そうなれば最終的に創造のサイクルが壊れ、社会が文化的に貧しいものになってしまう」
「JEITAは小委員会の場で、文化庁案に対してイエスかノーかをはっきりしてほしい。それによって創造のサイクルが壊れた場合、文化的な損失に対するメーカーの責任は重大。責任追及していかざるを得ないと思う」
メーカーがフリーライドするのはよろしくないかもしれないが、だからといってカスラックがかわりにそれをやってもいいという理屈にはならない。また、補償金が無くなることで文化の創造サイクルが壊れると信仰しているようだけれど、その根拠がさっぱり理解できない。カスラックが想定する搾取のサイクルは破壊されるかもしれないけれど、それによって社会が文化的に貧しいものになってしまう訳では無い。
メーカーに責任を取れというが、逆にお前らは、これまで創造のサイクルと称するものを担ってきた者として、この社会の貧しすぎる文化について責任を取る気があるんだろうか。この自称権利者と称する連中の言い分を認めた時に、現状よりもさらに文化的に貧しくなった場合、こいつらはどうやって責任を取るつもりなんだろうか。こういう言い方をする以上、まずはそこを明確にするべきなんじゃないですかね。
まぁカスラックですからね。所詮カスな訳で、まともなことを期待するのは、乳飲み子に哲学を語れどころか、ミトコンドリアに哲学を語れと言ってるのと同じようなレベルでしょう。求める方が馬鹿な訳です。それは既に確定済み了解事項な訳ですが、問題はその程度の彼らが一端の権限を持っているということでしょう。素直に分相応な事務屋に徹してさえ居れば、そこそこ評価もされるのに、理解することが不可能くせに文化なんぞを語り出すからカスと言われることになってしまう。馬鹿に大して馬鹿と言えない社会ってのは、こういうミスマッチが頻発します。全ての人間と社会にとって不幸しか生み出さないんですけどね。
権利者側はなぜ譲歩したのだろうか。「膠着(こうちゃく)状態は誰の利益にもならない。権利者がダビング10を人質に取っているというとらえ方を変えたかった」と実演家著作隣接権センターの椎名和夫さんは話す。
当然のことだけれど、膠着させた張本人に言われても全く説得力がない。更に権利者と称する連中が折れればいともあっさり問題が解決したという事実からも、この言い訳は成立していないというのが良く判る。そもそも時代錯誤な権利拡大を主張し、その大半を搾取企業に吸い取られる為のものであるというのだから、洒落にもならない。
はっきり言って遅きに失したのは確実でしょう。今更譲歩をしてきたところで、既に権利者と称する団体は、消費者及び文化の敵であるということは、明確に認識され、変えることは簡単には出来ないでしょう。特に最前面に常に置かれた椎名某に関しては、物事を考える事が出来ない愚かなマリオネットであるというのは確定事項として刻まれたでしょう。
権利者が搾取企業に搾取され続け、不遇な境遇だったというのは認めたいと思うし、今回それを変化させるチャンスであるというのも確かだったと思いますが、視野が狭窄し過ぎて、方向性を間違えたというのが致命傷です。これだけ長い期間、その失敗に気付かず、無謀で無意味な主張をし続けたという事実を消すことは出来ないでしょう。
残念ながら何もかもが遅すぎたというのが実際です。
流石正論だ! っていう位の詭弁っぷりです。本当に酷い。まぁこの案に安易に賛成している程度の馬鹿共は大抵この程度の思考で賛成しているんだろうなって感じが見え見えです。まずそもそも、それ程に健康は必要か? という大前提に対してなんら議論されていない。そこへ持ってきてアメリカとの差が云々と来た。海外の国と比べてどうこうというのは、馬鹿が大好きな手法の一つなんですが、他をさておいて、あるポイントだけを外国に合わせることに何の意味があるのかさっぱり判らない。日本とアメリカでは様々な条件が異なっている訳で、その二つの国を単純に比較したり、状況などを安易に合わせたりすることは、必ずしも幸福を招く訳でも無いどころか、下手すると不幸を呼び込む。
で、その6鳥とは何かというとこういうことらしい。
1.まずたばこの栽培農家とJT(日本たばこ産業)の利益が増える
2,青少年の喫煙率が減少するという効果が期待される
3,税収が増える
4,がんや心筋梗塞といった生活習慣病が減ることになり、その結果、医療費を削減することができる
5,火事が減る
6,多くの国民が健康になる
まさにちゃんちゃらおかしいとはこのことって感じだ。1と3はセット。金額が上がるから儲けが増えるという算段な訳だけれど、自分でも書いているようにこれは一定以下に喫煙者が減らないということが前提になっている。値段が3倍強ということは、消費数が1/3以下になればこれは成立しない。喫煙率が3割にならなくても、消費数が3割になればアウトだ。もし仮に、それ以下になった場合の補填は賛成派がしてくれるんだろうか。少なくともこれについては、やってみないと正確なところが判らないというギャンブルでしかない。この段階でメリットだと主張するのは詭弁だ。
2は前提条件が無視されている。つまり、青少年の喫煙率が減少することが「良い」ことだという前提である。これについては法律で禁止されていることもあり、当たり前だという言葉の元で思考停止している奴等がほとんどだけれど、実際にはこれを良いとする根拠はそれ程強くない。最も強いのは健康面への影響ということになるだろうか。だとしたら、6と被っている。同じ内容を表現を変えてメリットが倍あるかのように見せる。これも詭弁家の典型的なやり口だ。
じゃあ、その肝心な6な訳だが、人が煙草と言う娯楽を今以上に強く否定してまで健康になった方が良いという理由が僕には全く見つからない。煙草程度の不健康な娯楽を禁止するなら、もっと先に禁止した方が良いものは山のように存在している。そこを無視して、健康という信仰を無条件に信じ、その教えを愚鈍に実行していくというのは、人間のやることではない。人間が生きるというのはどういうことなのか。それを考えもせずに健康は絶対だと言うのは、そこらの新興宗教以下のゲスな思考だ。
健康が重要だという理屈の内多いのが4だろう。つまり、国の財政に優しいという発想な訳だ。癌や心筋梗塞が実際に減って、医療費を削減できたとしても、結果死なない年寄りが増えることになる。そうなれば、医療費以外の部分の負担が増えることになる。結果慢性的な病気が多くなれば医療費だって負担がかかる。そもそも、国の財政というのは非労働者数が増えれば増えるほど負担が多くなるなどというのは当然のことで、一時的な医療費など実際は大した問題じゃない。短期的なスパンだけを見て医療費が削減できるなどと言って、トータルで実際にどの程度の削減が出来るというのか、きちんとした試算を見せて貰わない限り成立しない。その辺りに全くふれられていないところを見ると、自分の主張にとって都合の良い数字しか見ていないのだろう。これも詭弁の典型。
最後に火事が減るという部分。これは確かにメリットとして成立するかもしれない。しかし、火事が起こるから煙草は良くないという理屈がまかり通るなら、この世の中の全ての娯楽を廃止しなければならなくなるだろう。その程度の意味しかない。ナイフがあるから通り魔殺人が起きるというのと同じ程度に低次元な発想だ。現役の政治屋がこの程度のことを平然と言ってのけるとは言え、マスコミも同じレベルで語っていたら救いが無い。
つまり、全てを検証したところで、この程度の脆弱な詭弁の上で成り立っている主張でしかない。もし、この程度の理由で喫煙が禁止されるとしたら、喫煙がどうこう以上に、そのような実績が残るという事実の方が恐ろしい。にもかかわらず賛成意見が多い。その場のノリや勢いだけで不条理な禁止事項を半強要されるというのは、喫煙の迷惑さなどとは比較にならないほど大きな迷惑です。こんな低レベルな主張に安易に賛成する、自分が嫌いだと思うことはみんなが嫌いにならなくてはならない、自分が嫌いだということは排除するべきだ。そう反応している馬鹿共に参政権が与えられているという事実に恐怖を覚えます。
心因というのは、今回のケースのような暴力や、精神的にショックなことのために、精神状態がおかしくなることである。一方、統合失調症や薬物中毒、そのほか脳の病気などで精神病状態になっていた場合は、責任能力なしと判断する。
以前から思っていることですが、責任能力が無い人間というのが普通に存在しているのがそもそもおかしい。もし、責任能力を問えないということが定義できるのであれば、その検査を定期的に行うことを義務づけて、責任能力が無い人間は事前に何らかの手段を講じる必要があるだろう。重大事件を起こしてから、責任があるだのないだの議論しているのが、これほどまでに多くあるというのは異常だとしか言いようがない。
勿論、そのためにはスタンダードやコンセンサスがあることが重要だけれど、事前調査と事前対策ということになれば、自ずとスタンダードやコンセンサスは出来上がるだろうと思っています。事件が起きた時に個別に対応しているという状態であるから線引きが曖昧なままでもまかり通っているのであって、その適用範囲が広がれば当然その部分は明確になることでしょう。
ちなみに、この事前対応というのは危険要素の排除とは意味合いが異なります。危険だから排除しているのではなくて、責任能力がない人間に権利を与えるべきではないという発想から来ています。よって、犯罪可能性を問う必要はありません。危険であるか無いかではなくて、純粋に責任能力の有無だけで判断すればいいことです。
事前調査の線引きと裁判での線引きが共通であれば、責任能力を問えずに無罪放免という事例は圧倒的に減るでしょう。問題は線引きの中身ではなくて、無責任な人間に無闇に権利が与えられているという事実な訳です。それを無くさない限り、どんな線引きをしたところで無意味でしょう。
「教えるのが教師の仕事」それはその通りだが、ほうきの基本的な使い方まで教えるのが教師の仕事だろうか? そう考えると激しく疑問だ。学校という社会に出て行く為に最低限必要な知識というのは、身につけているという前提にしなければ、教師なんてやってられない。その最低限必要な知識を教えるのは、親権者なりの役目であって、それは発達障害であろうがなんであろうが例外は認められない。
そもそも社会というのはそういう仕組みな訳だ。一定の特殊性はスポイルするということが成立条件になる。お互いがお互いにとって許せる範囲やお互いのメリットになると認められる範囲において個性というのは容認される。それが社会という仕組みだ。法律が人によって異ならないというのはそういうこと。
そして、学校というのも一つの社会であり、実際の社会の予行練習の場であると考えるならば、最低限の内容が求められるのは当然だろう。客観的に見てほうきで遊んでいる時に、しかられてパニックを起こすような状態であるならば、学校に来る最低限の能力が満たされていないとするべきだ。それを無理矢理入学させておいて、責任を教師に丸投げしているのでは、正直ババを引かされたと感じるでしょう。
細かいことを一つ一つ全部発達障害児に教えるのは難しいかもしれない。けれど、注意されたりしかられたりした時、自分の理解していることが間違っているということがあるんだという概念をきっちり理解させ、パニックなどを起こさせない。少なくともそれが出来ていないのであれば、学校に連れてくるのは間違っていると判断する方が妥当だと僕には思えます。
自分の好きなことをすれば良い。ただ、自分の好きなことをするためには、少々周囲と折り合いをつけなければならない。自分のためだと思って、それくらいは我慢しよう。そう、すべては自分を生かすためだ。そう考えるのが一番納得ができるのではないか。
完全に同意できます。エゴイズムが進むと他人との折り合いを考えざるを得なくなります。それはあくまでも自分の為にです。それが、更に進めば他人に積極的に関わったりすることになる。それが人間同士がお互いに生きていくという姿であって、他人を思いやるということを前提とした関係を是とするのは不健全だと僕には思える。それは結果先取りであって、経過を無視し過ぎている。
どんなものでもそうだけれど、理由が分からないモノを押しつけられるというのは苦痛でしかない。様々な勉強にしても、倫理にしても、常識にしてもそうで、何故それが必要なのか、それをするとどうなるのかを理解しない限り身についているとは言えない。形式的に猿真似をしているだけで、簡単に暴走したり間違ったりしてしまう。世の中にはそういうものが溢れています。
空気読めにしてもそう。実際には読むべき空気と、読む必要のない空気というものがあります。それを切り分けることをしないで、間違った時に空気読めとだけ指示するから、なんでもかんでも空気を読もうとするようになる。結果空気を読む技術は上手くなるかもしれないけど、一番付き合いたくない人間になってしまったり、過度に技術を求められた結果落ちこぼれて、無意味な疎外感を味わったりする。
形式を整え、結果的な平和や安定を確保するには無条件的な形式維持が最もローコストであることは間違いがない。その典型が法律という奴だろう。人を殺してはいけない理由すらまともに答えられない人間が大勢存在しているような状態ですから、これだけ様々な禁止事項が乱立している法律の意味など、専門家でも全て答えられるかどうか疑わしいです。けれど、法律を守ることこそが正義だとしてしまうことで、最もローコストに一定の平和や安定を担保出来ている訳です。そのメリットは認めると同時に、しばしばそれが暴走して、訳の分からない取り締まりや判決が出たりしているのを見かけます。
現在の複雑な社会構造では全ての物事に対して理由付けをしていくと、とんでもないことになるのは事実です。けれど、自分が困った時、迷った時、決断する時、意見を表明する時、そういうポイントとなるタイミングにおいて、関連する事柄に対して「何故」と問うことは、必要な行為だと思います。少なくともそれが出来ることが人間としての最低条件だろうと僕には感じられます。






