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Kazu'Sが感じたことを遠慮無しに書き込む為のBlog。気分が悪くなっても知りません(笑) 自己責任で。 基本アニメレビュー。「シムーン」「RED GARDEN」。最近はひたぎ蕩れでミナ蕩れです。

英数字が5割以上のコメント、TBは投稿制限しています。またスパムと判断されるものは問答無用で削除します。
今回はかなり盛上がりました。これを主軸に出来るだけのネタが詰っているだけに、情報量も豊富です。エスパーとノーマルの対立というのは、この作品における持っても重要な要素なんですが、これまではどうしても出し切れていない部分がありました。かなり難しい問題で、そう簡単に結論が出せるようなものでないことは事実で、その分薫達の未来も揺れているということになるんでしょう。

その解決方法に関しても、様々な手段があるわけで、その極端な例の一つが今回出てきたということなんでしょう。それに対して、一体作品としてどういう結論になるのか、興味深いです。当然それに対して皆本が関わらなければならないわけですが、未だに皆本の決心も固まっていないというのが明らかなのが見えます。

さて、シリーズとしてどんな結末になるのか、気になるところです。
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流石だ。ともうつくづく感心してしまう他にやりようがないという感じがします。これだけ時間と空間を頻繁に行き来しつつ話の展開が全く曇らない。曇らないどころか、それ自体が緻密に計算され、それぞれに対して効果的に良い影響を与え、しかも場面が転換することで、テンポを与えることにも成功しています。

勿論そういう表面的、あるいは演出面だけに留まりません。まずはシリーズを通して全体の物語というのをこれまた効果的に使い、更にきちんと今作ではそれを展開させて纏めようとしています。千尋と景の話というのはそれぞれ単独で見ても十分にクオリティの高いものでしたが、今回の話を見てしまうと、そのクオリティの影に隠れていた意図的な積み残しの存在が明確化し、それがきちんと回収されているのが判ります。それがある種の収束感を与えると同時に、最終的なものでないというのが、今作に引き継がれた内容に見て取れるというのですから、本当に驚愕します。

恐らくは、現在と過去の関係性についても何らかの解説があるだろう事は確実で、それぞれの関係性というのが明確になって行くにしたがって、キャラの言動がより明確化するという対立構造を取っているだろうことは、想像に難くありません。しかもそれだけの内容を持たせつつ、シリーズとしての話の面白さを損なっておらず、5話で話を一度収束させつつ、6話から新しい展開を用意するという綺麗な構成を崩していません。

情報量を維持しつつも、きちんとした堅い構成を取って、しかも見ている側にとって速いテンポで話が進んでいる訳ですから、これは引き込まれない訳にはいかないでしょう。作品というのはこうやって作るんだよというお手本のようで、かつそれを芸術的なレベルにまで昇華させたという感じを受けます。障害とか、死とか、虐めとか、虐待とか、災害とかかなり重たいテーマを主軸に据えているにも関わらず全く位雰囲気にならないというのも素晴らしいし、それを常識的な範疇の答えで終わらせていないという辺りも好感が持てます。

それぞれのキャラがちゃんと存在感を持って生きていると感じられる。1人、2人でもやるのは難しいのに、これだけの数のキャラに対してそれを成立させるという離れ業をやってのけている事で、成立する神業といえるんじゃないでしょうか。
しかし、本当にカラオケに行かせるというシチュエーションが好きな人なんですね。まぁ今回に関しては、それぞれのキャラの特徴が良く出てはいました。1本丸々使ってる訳ですから、その位はしてもらわないとと言ってしまえばその通りではありますが。

ではありますが、微妙な感じなものが多くて、そこはそれ、実はこの作品のキャラ達って存外まともな人達が多い。可笑しかったのは部長とナギくらいでしょうか。ナギに関しては、外見上と中身のギャップが出たりでなかったりしていて、時折顕著に表れるので、そこが可笑しい。そうなると、純粋にキャラとして可笑しいのは部長のみって事になるのかもしれません。正直、あんな女子回りに一人欲しいという気が既に何度もしています。

まぁこの期に及んで、こんな話を作っているということは、間違いなく話を纏める気はないんだろうということでしょうから、もう何をして頂いても一向に構わないというか、既に残り話数をどうやって潰していくのだろうかというレベルの興味しかわいて来ません。設定的には面白い部分も多いと思うし、真面目に取り組めばそれなりなものになったと思うのですが、こういう作り方をされてしまうとなると、微妙な感じのギャグ作品、あるいは所詮は萌えアニメとしてしか評価できなくなりそうです。

正直言って勿体ないかなという気がしますが、まぁノリ的に、あるいはスタッフ的になるべくしてなったという事なのかもしれません。
小説でも、映画でも、ドラマでも、アニメでも、ゲームでも何でもそうですが、それを理由に自分の行動の責任を回避しようとするような奴は、人間と認めることは出来ないので、当然人権を剥奪するのが一番でしょう。殺されても、地獄に流されても、文句を言う権利も同情の余地もまるでありません。そういう馬鹿を育て、管理責任を果たせなかった親も、現行家族制どのものでは責任を逃れることは出来ません。逆恨みをするような馬鹿親だからそういう馬鹿餓鬼が育つということで、それもどうなったとしても全く関心外です。

マスコミが汚くて、信頼に足りないというのは、今や常識であって不思議がることは何もありません。売り上げが全てだというのも資本主義の営利企業においては当然のことで、正直マスコミなんてものに幻想を抱くのは小学生までにしておくべきだと思います。よって、そんな存在意義自体を自ら否定したような業界の連中がどうなろうと、これまた知った事じゃありません。

しかし、今回のメインは迎合する奴でした。簡単に言うならば大衆です。大衆が最も罪深いというのは完全なる真理です。無責任な大衆に権限を与えたことで、マスコミは腐り果て、無責任な親が増殖し、無責任な餓鬼が量産される事になります。自分で責任を負うということを放棄しているのが大衆の特徴で、彼等はその変わりを見つけるためにあらゆる手段を正当化する訳です。無責任な奴が権限を持っている社会がまともなものになることは絶対にありません。そういう意味では、一馬鹿息子や、一馬鹿編集長や、一大衆を地獄に流したところで何も変わらない。それは間違いなくそうでしょう。問題の根底は、そういう個別な所にある訳ではないからです。

恨みと称すれば、状況や相手に関わらず相手を地獄に送れるというシステムである以上、恨みの連鎖や、逆恨み、勘違いが多発するというのは当然のことです。ましてや責任という概念を理解していない大衆にそのシステムを開放してしまったのでは、暴走が起きるというのは必然です。このシリーズの結論をどう結うところに持って行くつもりなのか未だに良く判りませんが、資本主義的、民主主義的、大衆社会と同じ位にこの地獄通信システムには欠陥があるというのは、最初から明白になっているように思えます。
小説でも、映画でも、ドラマでも、アニメでも、ゲームでも何でもそうですが、それを理由に自分の行動の責任を回避しようとするような奴は、人間と認めることは出来ないので、当然人権を剥奪するのが一番でしょう。殺されても、地獄に流されても、文句を言う権利も同情の余地もまるでありません。そういう馬鹿を育て、管理責任を果たせなかった親も、現行家族制どのものでは責任を逃れることは出来ません。逆恨みをするような馬鹿親だからそういう馬鹿餓鬼が育つということで、それもどうなったとしても全く関心外です。

マスコミが汚くて、信頼に足りないというのは、今や常識であって不思議がることは何もありません。売り上げが全てだというのも資本主義の営利企業においては当然のことで、正直マスコミなんてものに幻想を抱くのは小学生までにしておくべきだと思います。よって、そんな存在意義自体を自ら否定したような業界の連中がどうなろうと、これまた知った事じゃありません。

しかし、今回のメインは迎合する奴でした。簡単に言うならば大衆です。大衆が最も罪深いというのは完全なる真理です。無責任な大衆に権限を与えたことで、マスコミは腐り果て、無責任な親が増殖し、無責任な餓鬼が量産される事になります。自分で責任を負うということを放棄しているのが大衆の特徴で、彼等はその変わりを見つけるためにあらゆる手段を正当化する訳です。無責任な奴が権限を持っている社会がまともなものになることは絶対にありません。そういう意味では、一馬鹿息子や、一馬鹿編集長や、一大衆を地獄に流したところで何も変わらない。それは間違いなくそうでしょう。問題の根底は、そういう個別な所にある訳ではないからです。

恨みと称すれば、状況や相手に関わらず相手を地獄に送れるというシステムである以上、恨みの連鎖や、逆恨み、勘違いが多発するというのは当然のことです。ましてや責任という概念を理解していない大衆にそのシステムを開放してしまったのでは、暴走が起きるというのは必然です。このシリーズの結論をどう結うところに持って行くつもりなのか未だに良く判りませんが、資本主義的、民主主義的、大衆社会と同じ位にこの地獄通信システムには欠陥があるというのは、最初から明白になっているように思えます。