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Kazu'Sが感じたことを遠慮無しに書き込む為のBlog。気分が悪くなっても知りません(笑) 自己責任で。 基本アニメレビュー。「シムーン」「RED GARDEN」。最近はひたぎ蕩れでミナ蕩れです。

英数字が5割以上のコメント、TBは投稿制限しています。またスパムと判断されるものは問答無用で削除します。
殺しを機械のように行うか、それともその意味を考えるか。それは二人の幹部がそれぞれ思う考え方とリンクしていて面白い。現状の組織を維持させるという意味においてはサイス=マスターが正しい。部品は常に交換可能な状態にしておくのがよろしくて、機械として性格に作動してくれるのが最も良い状態な訳だ。

けれど、もし現状以上を求めるならクロウディアが正しい。技能と智恵の両方を持つ者は得難い存在だし、機械は機械以上にはならないけれど、人間は現状を越えるものになる可能性を持っている。ファントムのような存在が希有なのだとすれば、単に優秀な機械として使い捨てにする事は無い。その考え方も成立します。

ここでのポイントは実はアインにしてもツヴァイにしてもまだ精神が完全に固まっている状態ではないという事。アインはほぼ固まっていたのかもしれないけれど、ツヴァイという刺激が彼女に与えている影響は大きいし、クロウディアがツヴァイに吹き込んでいる事はそもそも彼を無機質のまま居ることを許さない。実際クロウディアの腹心であるリズィは熱い人間として描かれている。

その矛盾した二つの思いが生み出すギャップがファントムの二人に与える影響がどの程度のものか。それが見所になってきそうな感じです。
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澪をボーカルにすると決めた以上、これは避けては通れない道と言う事で、緊張との闘いという話。確かに澪はちょっと極端ではありますが、何らかの発表を行う際にはやっぱり多かれ少なかれ誰でも感じてしまう話なのでこれは共感を覚えやすいです。それと同時にやっぱり緊張してもどうにもならないというのは事実ですから、それをあっけらかんと行える他の面子は才能あるんじゃないかという気がします。

ただし、例によって彼女達は状況を十分楽しんで出いるという感じは伝わってきました。状況を楽しむというのもこの手の活動には必要になる素養だろうと思うし、何よりもこの作品の主旨なんじゃないかという気がするので、それが伝わってくるという事は、成功という事なんだと思います。

で、次回は一足飛びにクリスマス。恐らくクリスマスライブという方向に行くんじゃないかという気がしますが、予告を見る限りだとそれだけに留まらず過去の思い出話とかも出てくるようで、どんな話になるのかちょっと楽しみだったりします。

それにしても、お前ら非常識に巧すぎだろ。
滝沢の発想は完全に正しい。そして、咲ちゃんもそれについて理解はしていないけれど肌で感じている。だから違和感を感じてしまって、本来やらなければならない事が出来なくなってしまったりしている。彼女の気持ちはよく判る。どうして良いか判らなくて混乱している状態。ただ、これまでの自分や社会の常識が破綻しているということに気付くことは、それに対応するための第一歩になります。

逆に完全に終わっている代表が大杉と言う事になるでしょう。つまり、彼が最も常識人であり、現在の人間に近い存在という事になります。問題意識の無さ加減がまさに現在の大衆って感じで馬鹿さ加減を巧く表現しています。社会体制に対して絶大な信頼を置いており、常識的なルールを遵守することが最も適切であるという判断をする。決して悪人では無いけれど、現在の社会において最も害悪となる大衆として描かれています。

過去の滝沢がニートを無理矢理そうしなければ死ぬという状況に追い込んだという選択も正しい。そして、送り込んでおいて放置というのはつまり、馬鹿が直らなければ死ねと言う事を意味する。そこでは立場や肩書きというものはまるで通用しない。社会システムという束縛から解放されることで、アホなニート共もやっと自らの責任と存在意義の立て方というものを学ぶ者が表れた訳だ。そうでもしない限り、現在の社会システムという枠内に彼等が居る限りモラトリアムは続くし、それがモラトリアムであるということを当人達は気付かないだろう。

また、何人かのセレソンが表れたけれど、見る限り救世主として動いているようには見えない。何を持って世界を救えるのかという命題がはっきりしていないので何とも言えないのだけれど、現在秩序と社会システムを何ら形で崩壊させない限り社会が変わるという事はあり得ない。それが近代民主制と資本主義からなる現在社会の致命的な病巣だ。

社会の方を変えないのであれば、人間が社会から離脱してしまうという手段もある。近代を否定しない限りその次の社会体制は構築できないというのはどちらの手段でも同じだ。個人が社会に直結する形式、権力構造というフィルターを通さずに、自らが自らの社会に責任を持つ体制というのが、真の民主制であり、真の自由主義のはずだ。既に近代の似非社会体制は命数を使い果たしたという滝沢の認識は全く正しいものだと僕には思えます。