続・運動部に学ぶリーダーの責任
折角お返事をいただきましたので、更に返信などしてみたいと思います。
それが目指すリーダー像であるということは理解できます。しかし、企業は部活ほどには容易では無いというのが僕の言いたかったことです。例えば一般的な運動部であれば、目標は大会で勝利することとか、記録を作ることとか非常にシンプルであり、かつ、自分の目標と組織の目標が一致しやすい構造になっています。
しかし、これが企業ともなるとそうは行きません。会社の目標は簡単に言えば儲ける事でしょうが、それをしたから自分も嬉しいと単純に思える人はそうは居ません。それによって給料や賞与が上がるなどのクッションがそこに入る訳で、それが事を複雑にします。これぞ、まさに成果主義が正しく行われているかに直結するんですが、自分が企業に対して行った労力に対して、成果が見合っていないと考える人がかなり多いはずです。
しかも、これは(それが社長であっても)一人のリーダーがなんとか出来るという話ではなく、他の部署や業界全体の動向などなどが複雑に絡み合って決まっているので、求心力だけでなんとかなるというものでもありません。更に言うと、特定のリーダーがカリスマ的な魅力で部下を引っ張るというのは、ある程度の規模の企業では歓迎されません。
何故なら、そのリーダーが何かで抜けた場合、移動になった場合潰しが効かなくなるからです。また、最悪そのリーダーが独立や転職の際に、優秀な社員をごっそり抜いていくなんてのも、企業としてはゾッとしない想定なんじゃないでしょうか。組織として仕事を回すというのは、大抵の場合その人以外でも代替可能な状態にするということを指します。役所のマニュアル化などが典型でしょうね。
実行部隊と管理職を別々に考えるべきだという主張に関しては、同意できます。ただ、これも難しいのは、現状の企業はどうしても一人で稼げる金額というのは(一部の職業を除いて)限界があるということです。そうなると、それ以上に利益を上げる為には、どうしてもチームでナンボという計算をしなければならなくなるわけです。すると、必然的に管理職的な要素を強く求められてしまうのもどうしても仕方なくなります。
要はですね。個人が労働から疎外されているという事実があるんだと思います。結局企業の目的と個人の目的は金という媒介を介さないと一致することがない。この原則が有る限り、運動部のようなモデルにはならないだろうと感じています。もし、労働自体が個人の目的と合致するような状態を想定できれば、例えばボランティアなんかがそうかもしれませんけど、そういう場合は仕事をすることが即自らの欲求の充足に繋がる訳でやり易い。けど実際の企業ではそうならないから、モチベーションの維持が非常に難しいんですね。
逆に、そう錯覚させる能力をリーダーシップと言えなくも無いかも知れませんが、それは運動部的なリーダーシップとは既に違うものになってしまってますよね。宗教の教祖に近い気がします(笑) 宗教を軽蔑している僕には、詐欺師とも定義できますが。
最後におまけですが、コミュニケーション不全症候群に対して、説明する側が悪いという要素は確かに無いとは言いませんが、彼らの場合こちらが誠心誠意真面目に説明しようとしても、そもそも聞く気が無いという連中なので非常に難易度が高いです。かれらをコントロールするに恐怖というのは悪くない手段ですが、学校の部活と違って社会では簡単に逃避が可能なので、さじ加減が難しいです。ニートだのネットカフェ難民だのが増えている要因の少なくとも何割かはこれが原因だろうなと思っています。
折角お返事をいただきましたので、更に返信などしてみたいと思います。
「緊張感の維持はその組織が団結した目標を明確に意識している必要性があります」って。そう、そう思います。ただ、私としてはそれを明示し意識付けすることも含めた意味合いで、「リーダーの求心力」という言葉を使ったつもり(だけど読み返すとそうは汲めないけど…)で。
それが目指すリーダー像であるということは理解できます。しかし、企業は部活ほどには容易では無いというのが僕の言いたかったことです。例えば一般的な運動部であれば、目標は大会で勝利することとか、記録を作ることとか非常にシンプルであり、かつ、自分の目標と組織の目標が一致しやすい構造になっています。
しかし、これが企業ともなるとそうは行きません。会社の目標は簡単に言えば儲ける事でしょうが、それをしたから自分も嬉しいと単純に思える人はそうは居ません。それによって給料や賞与が上がるなどのクッションがそこに入る訳で、それが事を複雑にします。これぞ、まさに成果主義が正しく行われているかに直結するんですが、自分が企業に対して行った労力に対して、成果が見合っていないと考える人がかなり多いはずです。
しかも、これは(それが社長であっても)一人のリーダーがなんとか出来るという話ではなく、他の部署や業界全体の動向などなどが複雑に絡み合って決まっているので、求心力だけでなんとかなるというものでもありません。更に言うと、特定のリーダーがカリスマ的な魅力で部下を引っ張るというのは、ある程度の規模の企業では歓迎されません。
何故なら、そのリーダーが何かで抜けた場合、移動になった場合潰しが効かなくなるからです。また、最悪そのリーダーが独立や転職の際に、優秀な社員をごっそり抜いていくなんてのも、企業としてはゾッとしない想定なんじゃないでしょうか。組織として仕事を回すというのは、大抵の場合その人以外でも代替可能な状態にするということを指します。役所のマニュアル化などが典型でしょうね。
実行部隊と管理職を別々に考えるべきだという主張に関しては、同意できます。ただ、これも難しいのは、現状の企業はどうしても一人で稼げる金額というのは(一部の職業を除いて)限界があるということです。そうなると、それ以上に利益を上げる為には、どうしてもチームでナンボという計算をしなければならなくなるわけです。すると、必然的に管理職的な要素を強く求められてしまうのもどうしても仕方なくなります。
要はですね。個人が労働から疎外されているという事実があるんだと思います。結局企業の目的と個人の目的は金という媒介を介さないと一致することがない。この原則が有る限り、運動部のようなモデルにはならないだろうと感じています。もし、労働自体が個人の目的と合致するような状態を想定できれば、例えばボランティアなんかがそうかもしれませんけど、そういう場合は仕事をすることが即自らの欲求の充足に繋がる訳でやり易い。けど実際の企業ではそうならないから、モチベーションの維持が非常に難しいんですね。
逆に、そう錯覚させる能力をリーダーシップと言えなくも無いかも知れませんが、それは運動部的なリーダーシップとは既に違うものになってしまってますよね。宗教の教祖に近い気がします(笑) 宗教を軽蔑している僕には、詐欺師とも定義できますが。
最後におまけですが、コミュニケーション不全症候群に対して、説明する側が悪いという要素は確かに無いとは言いませんが、彼らの場合こちらが誠心誠意真面目に説明しようとしても、そもそも聞く気が無いという連中なので非常に難易度が高いです。かれらをコントロールするに恐怖というのは悪くない手段ですが、学校の部活と違って社会では簡単に逃避が可能なので、さじ加減が難しいです。ニートだのネットカフェ難民だのが増えている要因の少なくとも何割かはこれが原因だろうなと思っています。
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