頭がいいより気前がいい
全くもってごもっとも。
つか、まさに自分が気前の悪い人間なので、何度経験しても、この指摘は落ち込み度が激しいです。しかし、かと言って、それに気付いても、知っていてもなかなか変えることが出来ないというのが実際のところです。これって、もう自分という人格に完全にこびり付いてしまっているものなので、なかなかそぎ落とすことができません。思考パターンの基本は「やりたくないことを如何にやらずに済ませるか」であって、「やりたいことを如何に実行するか」という思考パターンを羨ましいと思いつつ自分を変化させることが出来ずに居ます。
なんで、僕は人の上に立つということは向いていないだろうと自覚しています。いや、人の上で無くても、単独の個人事業主でも同様ですが、最終的なものを自らの判断に全てを委ねるという立場に向かないだろうと思っています。これは致し方ない。もう半ば以上諦めています。
僕のような人間にも一応の存在価値を見いだせるとしたら、それは、気前がいい人の手伝いをするというポジションに収まることだろうと思っています。すなわち参謀という地位に自らを置くということです。決定者に対して、それなりの情報や見方などを提示するという役割。これが自分のようなしょうもない人間にとって一番良いポジションなんじゃないだろうかと思っています。
ただし、この決定者にしても、当然誰でも良いという訳ではありません。参謀というポジションを選択した以上、決定者の決定に対しての答えは基本的にYesであることが求められるからです。勿論過程に議論はあるでしょうが、簡単に結論が出ないような問題の場合も多いでしょう。その場合は、決定者の決定に従わないという選択をすれば、その時点でそのポジションを失うことになるでしょう。当然、そうなれば一蓮托生な訳で、リスクを計算すると、結局自分でそれを実行することと本質的に何も変わらないことになります。
つまり、僕のような人間にとって、一番の幸せは、この人の判断なら結果は無視できる。損をしても、失敗しても仕方ないと思える。それ程のカリスマと出会えるかと言うことに尽きるんじゃないでしょうか。酷く依存度が高いですが、そういう生き物なので致し方がありません。これを宗教と呼ぶこともできるかもしれません。唯一の言い訳は、如何に感情からその理由を切り離せるかという部分にかかっているでしょう。また、絶対的なカリスマよりも、自分よりやや上(このさじ加減がまた微妙ですが)位の能力を持った人間、つまり自分の意志もある程度組み入れて貰える程度の次元で存在している人が適切でしょう。
もし、そういう人を見つけられたら、絶対に手を離さないようにした方が良いだろうと思います。ただし、優秀な決定者は単なる馬鹿を側に置いておくことはないでしょうから、優秀な決定者の側に居たいなら、自分が優秀な参謀になるしかありません。その人に対して、優秀な参謀でいられるように、勉強をしたり、情報を入れたり、考えたりと努力するべきでしょう。それが見逃し三振を、せめて送りバントに変化させることができる手段なんじゃないか。という気がしています。
全くもってごもっとも。
つか、まさに自分が気前の悪い人間なので、何度経験しても、この指摘は落ち込み度が激しいです。しかし、かと言って、それに気付いても、知っていてもなかなか変えることが出来ないというのが実際のところです。これって、もう自分という人格に完全にこびり付いてしまっているものなので、なかなかそぎ落とすことができません。思考パターンの基本は「やりたくないことを如何にやらずに済ませるか」であって、「やりたいことを如何に実行するか」という思考パターンを羨ましいと思いつつ自分を変化させることが出来ずに居ます。
なんで、僕は人の上に立つということは向いていないだろうと自覚しています。いや、人の上で無くても、単独の個人事業主でも同様ですが、最終的なものを自らの判断に全てを委ねるという立場に向かないだろうと思っています。これは致し方ない。もう半ば以上諦めています。
僕のような人間にも一応の存在価値を見いだせるとしたら、それは、気前がいい人の手伝いをするというポジションに収まることだろうと思っています。すなわち参謀という地位に自らを置くということです。決定者に対して、それなりの情報や見方などを提示するという役割。これが自分のようなしょうもない人間にとって一番良いポジションなんじゃないだろうかと思っています。
ただし、この決定者にしても、当然誰でも良いという訳ではありません。参謀というポジションを選択した以上、決定者の決定に対しての答えは基本的にYesであることが求められるからです。勿論過程に議論はあるでしょうが、簡単に結論が出ないような問題の場合も多いでしょう。その場合は、決定者の決定に従わないという選択をすれば、その時点でそのポジションを失うことになるでしょう。当然、そうなれば一蓮托生な訳で、リスクを計算すると、結局自分でそれを実行することと本質的に何も変わらないことになります。
つまり、僕のような人間にとって、一番の幸せは、この人の判断なら結果は無視できる。損をしても、失敗しても仕方ないと思える。それ程のカリスマと出会えるかと言うことに尽きるんじゃないでしょうか。酷く依存度が高いですが、そういう生き物なので致し方がありません。これを宗教と呼ぶこともできるかもしれません。唯一の言い訳は、如何に感情からその理由を切り離せるかという部分にかかっているでしょう。また、絶対的なカリスマよりも、自分よりやや上(このさじ加減がまた微妙ですが)位の能力を持った人間、つまり自分の意志もある程度組み入れて貰える程度の次元で存在している人が適切でしょう。
もし、そういう人を見つけられたら、絶対に手を離さないようにした方が良いだろうと思います。ただし、優秀な決定者は単なる馬鹿を側に置いておくことはないでしょうから、優秀な決定者の側に居たいなら、自分が優秀な参謀になるしかありません。その人に対して、優秀な参謀でいられるように、勉強をしたり、情報を入れたり、考えたりと努力するべきでしょう。それが見逃し三振を、せめて送りバントに変化させることができる手段なんじゃないか。という気がしています。
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