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Kazu'Sが感じたことを遠慮無しに書き込む為のBlog。気分が悪くなっても知りません(笑) 自己責任で。 基本アニメレビュー。「シムーン」「RED GARDEN」。最近はひたぎ蕩れでミナ蕩れです。

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差別の定義とその根源

非常に論理的、かつ明確な説明で分かり易いです。つまるところ、社会構造を原因としていると思われる差別に対して問題視するべきだという考え方のように思えます。

何をもって社会構造を原因としているのか、という判定の問題はこのさいおいたとして、ここで言われている定義に依ったとしても、差別の無い社会というものを構築可能なのか? という部分に大いなる疑問を感じますどのような定義を用いたとしても、結果としての社会的平等は不条理であると思っています。もし、無理に実現しようとすれば、その歪みから良くない結果が待っているだけでしょう。平等にするべきなのは結果では無く、機会とプロセスです。それも、学習機会など本質的な部分に限定されるべきでしょう。

機会の平等を疎外する根源は家族制度にあります。家族という単位が存在し、それを維持しようとすることで、育児や学習の機会の均等が完全に無視されています。本来なら障害者であるということを理由に採用を見送られたとしても、それは差別ではないのです。障害者であっても雇いたいと思われるようにならなければなりません。それは健常者より何倍も大変かもしれません。しかし、それでもそうあるべきです。もし、全ての人間に対して、少なくとも同質の教育と環境、同量の手間と費用が割り当てられているとするなら、それによってもたらされた結果は差別では無いと考えています。

そして、保守的傾向が強く、普通はとか、常識はとか、みんなはという謎な価値感を振り回すことをなんとも思わないメンタリティーの根源が功利主義的価値感です。これが人間の思考を停止させ、中身を問わず形式だけで物事を判断する癖を容認する根拠になっています。

功利主義的価値感の根源は近代民主制です。多数決という方式に安易に頼る以上、少数派が絶対に差別的扱いを受けます。これぞまさに社会構造から来る差別です。民主制において多数決が原則などということはありません。そんなものは既得権益を握っているものが作り出した幻影です。本来の民主制は十分な能力を有する人間の理性的対話が原則です。場合によって非常手段として多数決を取る必要がある場合もあるでしょうが、その場合、多数者は結果に対して責任を負うことが必要です。某国の政治のように形式的な対話のみを行って、すぐに多数決での解決を求める。しかも責任は実質上不問。そのようなものは民主制を名乗る資格はありません。

少なくともこの差別の根源の二つを完全に撲滅し、機会とプロセスが平等となれば、その結果がどうであろうと、どんな不平等になろうと、それは差別とは呼べないと考えています。全ての人間は違うのですから、結果に差が生じるのは当然のことです。それは差別と呼ぶには値するものとは思えません。逆にこの二つのどちらかでも維持したままでは、どのような社会が成立したとしても「口先だけの反差別」にしかならないだろうと考えています。
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FC2テーマ:社会 | カテゴリー:社会
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