FC2ブログ
Kazu'Sが感じたことを遠慮無しに書き込む為のBlog。気分が悪くなっても知りません(笑) 自己責任で。 基本アニメレビュー。「シムーン」「RED GARDEN」。最近はひたぎ蕩れでミナ蕩れです。

英数字が5割以上のコメント、TBは投稿制限しています。またスパムと判断されるものは問答無用で削除します。
"So It Goes." ―不適用例

ここをまず読んで。これは「人を殺してはいけないという禁が破られてしまったのは何故か」という問いへの答だと思った。つまり、「人を殺してはならない」という前提は疑われていない。


お見逸れしました。その通りです、それはそういう前提で元エントリーが記述されていると僕が誤解したが故です。では、「人を殺してもよいのは、または、人を殺すべきなのは、どんなときだ」という問いの答えは何か。倫理的な回答では無意味であると僕は思っています。つまり、

自分の命が奪われるよりも相手の命を奪うことが望ましいと感じられる時

と端的にはなるでしょう。一番判り安いパターンで言うなら、報復を恐れない、または報復を考慮しないで済むという場合でしょう。長崎とバージニアの例は、何らかの理由によって報復を恐れないという結論に至ったのでしょう。ちなみに神などへの信仰による自殺や殺人も似たようなものですね。死刑や戦争はまさにイデオロギーとしてこの結論に達しているが故に、社会的には正義として殺人が肯定されるし、犯罪の殺人やテロリズムはその社会に受け入れられていないから悪として否定されます。同じ行為でも、テロリズムなどは片側から見れば悪魔の所行でも、片側から見ると英雄的行為と見なされますから、その程度の曖昧さをもっているということです。ある行為に対して(この場合殺人)絶対的な善(あるいは肯定)や、絶対的な悪(あるいは否定)などまず定位することは不可能です。定位できるとしたら、それは信仰によるものだけでしょう。

さて、そこで先のエントリーの話に戻ります。『責任の所在が誰であるかを自力で本当に明らかにできたとき、むしろ、私たちは案外、「だったらそいつは殺してもいい、殺すべきだ」とまで短絡しないようになれるのではないか』という指摘がなされています。これは、僕も結構な確率があると思います。何故そうなるのか。一つは、責任者の言動が変わるのが明らかだからです。

失敗したら確実に殺されると判っている状況になれば、責任者の行動は今までと同じにはならないでしょう。慎重になるだろうし、言われなくても説明責任を果たすでしょう。最終的に責任者の地位を降りるという選択をするかもしれません。適当なところで強行採決なんてのを、気軽に何度も使うなんてあり得るはずがありません。文字通り命がけで何かを成しているということが周りに実感されれば、もし力及ばず失敗に終わったとしても、殺そうとまでは思われないかもしれません。力一杯戦ったスポーツ選手を攻めないのと同じような現象でしょうか。周りにやれるだけのことはやったと認められれば、人類としての限界であるならば、それ以上攻めようが無い訳です。

また、前回の話の意図としては、責任の所在が明確になれば、犯罪者と呼ばれている人の何割かは、もう少し不満のぶつけどころがあったのではないか。そして何らかの解決を見ることが可能だったのではないかというものがありました。これも、現状のような曖昧な責任体質では、のらりくらりと逃げられてしまうかもしれませんが、本当に責任の所在が明確になっているとするならば、原理的に逃げることは出来ないだろうと思っています。そして、民主主義について言及したのは、少数派であるという事実だけで、問題が片付けられるというのはよろしくないだろうと考えているということの表明です。

理不尽と思えるような犯罪が横行する場合、それは社会にねじれが生じていると見るべきだと思っています。そのねじれをどの部分で修正しようとするのか。目先のねじればかりを対処しているだけでは、いつか千切れてしまうでしょう。根本的な対処を行う必要があるのは明確なんですが、既得権益に浸かった保守主義的思考では、それを行うことは難しいでしょう。前提条件を見直すことが必要になるだろうと思います。
スポンサーサイト



FC2テーマ:社会 | カテゴリー:所感
トラックバック:0 | コメント:0 | Page Top↑
コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://kazus.blog66.fc2.com/tb.php/2230-90eee55a
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック