どのような社会像を想像しているのか
人間の生まれながらの能力が違うのは当たり前です。それが運動であろうが勉強であろうが容姿であろうが、関係無くそれを無理矢理平等にすることは発想は結果平等であり、悪平等というものです。僕は、人間は全て平等であるべきだと主張している訳ではありませんし、結果平等を求めている訳でもありません。少なくとも本人の能力が自分以外の要因によって不当に妨げられることは避けるべきだと主張している訳です。努力したかどうかを問題になどしていません。生まれついたものも、その後の行動も全部含めて自分であることは認めなければなりません。なので、前半の指摘は全く見当違いです。家族制度を解体しても、完全な機会平等は得られないかもしれません。ただ言えることは、家族制度を存続させるよりは遥かに平等が確保できるということです。それ以上の理由が必要だとは思えません。
実現性の問題ですが、どのような道筋にも、目標と過程というものがあります。目標点を定めずに現実性を重視してとりあえずやるということに賛成出来ません。ですから、まずは何を最終地点とするのかという部分を明確にする必要があると考えています。そういう意味で、当面の現実性を過剰に重視するべきではないというのがここでの見解です。
家族以外が教育を行うと多様性が無くなるといい。そして、同じ家族に育てられていても所属する友達等の集団が異なれば多様性は確保されるという。ならば、家族以外が育てていても、友達等の集団が異なるなら、何ら問題無いということになるんじゃないですか? 子供には判断力が無いから親が道筋を決めている。けれど、それを親以外が行うと多様性が失われてしまういう。親以外であったとしても、当人の能力や趣向に適した道筋を示せれば、誰が行っても問題はないんじゃないですか?
人間というのはそれ程単純な生き物では無いですよ。そんな簡単に同じような人間が大量生産できると思っているなら大きな間違いです。洗脳教育でもしない限り、(現在以上に)同じ価値観を持った人間を作るなんてことはそう簡単ではありません。もし、現状の学校などを想定しているのであれば、それは大きな間違いです。現在の学校制度は家族制度と相互依存していますから、家族制度が無くなれば、学校制度も大きく変化せざるをえなくなります。
幸せの定義は誰にも決められません。だから仮に僕が具体的に提示したとしても無意味です。けれど、家族制度がなくなった途端に幸せが無くなると考えるのはナンセンスです。家族が無ければ無いでその状況に応じた幸せというものを見つけ出すのが人間というものです。家族が無ければ幸せは得られないというのは、単に現在のイデオロギーに依存している人間の価値観に基づけばそういう人も居るというだけのことで、なんらの絶対性がある訳でもありません。
金銭面についても、今は個別の家族がその費用を負担している。単に個別に分散しているというだけで、負担は負っているのです。である以上、それを家族以外の誰かがやったところでトータルの費用、これは労働力も含んでかもしれませんが、は変化しません。そして、その出所が大きく見た時国民の財布であることも変わらないのです。ですから、負担が増えると考えているのであれば、間違いです。ある立場の人の負担は増えるかもしれませんが、他の立場の人の負担は減る訳ですから、差し引きすれば相殺できるということです。
概念の為に努力することは難しい。というけれど、その場合の概念が対象となる人達にどのようにとらえられているかが問題な訳です。「現状の」貴方にとって、家族という存在が社会という存在よりも遥かに価値が高いという感覚があるから、家族以外を想定することは難しいとなっているんでしょう。
何度も言いますが前提条件が変わっている以上、「現状の」貴方の発想を幾ら当てはめてみても意味がありません。根拠や具体性が無いという前に、きちんと状況をリアルに想定してください。ただし、その際には「現状の」価値観をリセットする必要があります。
それが典型的に表れているのが自分が育てない子供を女性が生むのか?という疑問です。家族という概念が存在していることを前提にしているから、そもそもこういう疑問が出てくる訳です。子供は家族の所有物であるという発想から自由になれていない証拠です。社会の子供は(自分も含めた)社会のものという発想が定着していると発想できれば、そのような疑問はそもそも出てこないのです。そして、その発想が定着出来ないのではないか? という疑問を説明するのに、また家族が社会より重要だからと持ってこられたのでは、話が堂々巡りしてしまいます。
賛同云々以前に内容を理解されていないと感じます。もう一度言いますが、前提条件が変われば人間の考え方は変わるのです。そこを正しく解釈してもらわない限り内容は理解できないと思うし、議論も噛み合って来ないのではないでしょうか。
人間の生まれながらの能力が違うのは当たり前です。それが運動であろうが勉強であろうが容姿であろうが、関係無くそれを無理矢理平等にすることは発想は結果平等であり、悪平等というものです。僕は、人間は全て平等であるべきだと主張している訳ではありませんし、結果平等を求めている訳でもありません。少なくとも本人の能力が自分以外の要因によって不当に妨げられることは避けるべきだと主張している訳です。努力したかどうかを問題になどしていません。生まれついたものも、その後の行動も全部含めて自分であることは認めなければなりません。なので、前半の指摘は全く見当違いです。家族制度を解体しても、完全な機会平等は得られないかもしれません。ただ言えることは、家族制度を存続させるよりは遥かに平等が確保できるということです。それ以上の理由が必要だとは思えません。
実現性の問題ですが、どのような道筋にも、目標と過程というものがあります。目標点を定めずに現実性を重視してとりあえずやるということに賛成出来ません。ですから、まずは何を最終地点とするのかという部分を明確にする必要があると考えています。そういう意味で、当面の現実性を過剰に重視するべきではないというのがここでの見解です。
家族以外が教育を行うと多様性が無くなるといい。そして、同じ家族に育てられていても所属する友達等の集団が異なれば多様性は確保されるという。ならば、家族以外が育てていても、友達等の集団が異なるなら、何ら問題無いということになるんじゃないですか? 子供には判断力が無いから親が道筋を決めている。けれど、それを親以外が行うと多様性が失われてしまういう。親以外であったとしても、当人の能力や趣向に適した道筋を示せれば、誰が行っても問題はないんじゃないですか?
人間というのはそれ程単純な生き物では無いですよ。そんな簡単に同じような人間が大量生産できると思っているなら大きな間違いです。洗脳教育でもしない限り、(現在以上に)同じ価値観を持った人間を作るなんてことはそう簡単ではありません。もし、現状の学校などを想定しているのであれば、それは大きな間違いです。現在の学校制度は家族制度と相互依存していますから、家族制度が無くなれば、学校制度も大きく変化せざるをえなくなります。
幸せの定義は誰にも決められません。だから仮に僕が具体的に提示したとしても無意味です。けれど、家族制度がなくなった途端に幸せが無くなると考えるのはナンセンスです。家族が無ければ無いでその状況に応じた幸せというものを見つけ出すのが人間というものです。家族が無ければ幸せは得られないというのは、単に現在のイデオロギーに依存している人間の価値観に基づけばそういう人も居るというだけのことで、なんらの絶対性がある訳でもありません。
金銭面についても、今は個別の家族がその費用を負担している。単に個別に分散しているというだけで、負担は負っているのです。である以上、それを家族以外の誰かがやったところでトータルの費用、これは労働力も含んでかもしれませんが、は変化しません。そして、その出所が大きく見た時国民の財布であることも変わらないのです。ですから、負担が増えると考えているのであれば、間違いです。ある立場の人の負担は増えるかもしれませんが、他の立場の人の負担は減る訳ですから、差し引きすれば相殺できるということです。
概念の為に努力することは難しい。というけれど、その場合の概念が対象となる人達にどのようにとらえられているかが問題な訳です。「現状の」貴方にとって、家族という存在が社会という存在よりも遥かに価値が高いという感覚があるから、家族以外を想定することは難しいとなっているんでしょう。
何度も言いますが前提条件が変わっている以上、「現状の」貴方の発想を幾ら当てはめてみても意味がありません。根拠や具体性が無いという前に、きちんと状況をリアルに想定してください。ただし、その際には「現状の」価値観をリセットする必要があります。
それが典型的に表れているのが自分が育てない子供を女性が生むのか?という疑問です。家族という概念が存在していることを前提にしているから、そもそもこういう疑問が出てくる訳です。子供は家族の所有物であるという発想から自由になれていない証拠です。社会の子供は(自分も含めた)社会のものという発想が定着していると発想できれば、そのような疑問はそもそも出てこないのです。そして、その発想が定着出来ないのではないか? という疑問を説明するのに、また家族が社会より重要だからと持ってこられたのでは、話が堂々巡りしてしまいます。
賛同云々以前に内容を理解されていないと感じます。もう一度言いますが、前提条件が変われば人間の考え方は変わるのです。そこを正しく解釈してもらわない限り内容は理解できないと思うし、議論も噛み合って来ないのではないでしょうか。
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この記事へのコメント
トラバが無かったのでコメントにて。
具体的なビジョンが無い以上、どう咬み合ってないのかわからないと言うのが私の意見です。
「前提条件が違ってくるのだから、全ての価値観が変わってくる」と言うのは簡単ですが、全てを善意的に解釈すればどの様な政策を採ったところで理想社会が出来てしまいます。
それこそ「軍国主義化すれば平等社会が実現する」と唱えてもいいわけです。
また親の経済格差による差が差別の温床となると言うなら、家族を存続させたままで共産主義社会に移行するだけでも問題無いでしょう。
そちらの方が説得力を感じますが。
って粘着みたいですね(^^;
以後控えます。
具体的なビジョンが無い以上、どう咬み合ってないのかわからないと言うのが私の意見です。
「前提条件が違ってくるのだから、全ての価値観が変わってくる」と言うのは簡単ですが、全てを善意的に解釈すればどの様な政策を採ったところで理想社会が出来てしまいます。
それこそ「軍国主義化すれば平等社会が実現する」と唱えてもいいわけです。
また親の経済格差による差が差別の温床となると言うなら、家族を存続させたままで共産主義社会に移行するだけでも問題無いでしょう。
そちらの方が説得力を感じますが。
って粘着みたいですね(^^;
以後控えます。
2007/11/29(木) 11:17 | URL | yomotsu-hirasaka #-[ 編集]
TB飛んでませんでしたか? 飛ばしたつもりだったんですが…。って多分リンクが抜けていたからかもしれません。失礼しました。
え~、簡単に言うと、なんで「全てを善意的に」が成立すると感じているのか? が不明瞭だということです。つまり、貴方の想定としては僕が言うようにはならず、もっと悪くなると想定しているんだと思いますが、書かれている内容を見る限り、その根拠が「家族に高い価値観が存在していること」を前提にしているようにしか見えないのです。
軍国主義でも共産主義でも平等が実現できると主張することは可能なのかもしれませんが、その場合のデメリットをどう考えるかと言う問題が残ります。そういう意味で、現在の価値観をリセットしていただいて、その上でもまだ僕の想定が善意的過ぎるというのであれば、それは十分拝聴に値する内容だと思っています。
ちなみに、純粋に経済力の問題だけなら、仰る通りかもしれません。けれど、僕としてはそれだけではないと思っています。保護者の人間性とか、親類縁者の問題とか、地域性の問題とか、結局それらの要因は保護者に付随するものである訳です。だから、経済的な部分だけフラットにすればだけでは片付かないだろうと考えています。
※ ふと思ったんですが、ひょっとして現状からの移行段階について考えているのではないですか? 勿論ある日突然変わりましたとやっても、駄目でしょう。ここで書いているのは完成型であって、移行については手段も含めてここではほとんど記述していません。
え~、簡単に言うと、なんで「全てを善意的に」が成立すると感じているのか? が不明瞭だということです。つまり、貴方の想定としては僕が言うようにはならず、もっと悪くなると想定しているんだと思いますが、書かれている内容を見る限り、その根拠が「家族に高い価値観が存在していること」を前提にしているようにしか見えないのです。
軍国主義でも共産主義でも平等が実現できると主張することは可能なのかもしれませんが、その場合のデメリットをどう考えるかと言う問題が残ります。そういう意味で、現在の価値観をリセットしていただいて、その上でもまだ僕の想定が善意的過ぎるというのであれば、それは十分拝聴に値する内容だと思っています。
ちなみに、純粋に経済力の問題だけなら、仰る通りかもしれません。けれど、僕としてはそれだけではないと思っています。保護者の人間性とか、親類縁者の問題とか、地域性の問題とか、結局それらの要因は保護者に付随するものである訳です。だから、経済的な部分だけフラットにすればだけでは片付かないだろうと考えています。
※ ふと思ったんですが、ひょっとして現状からの移行段階について考えているのではないですか? 勿論ある日突然変わりましたとやっても、駄目でしょう。ここで書いているのは完成型であって、移行については手段も含めてここではほとんど記述していません。
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