マリア様がみてるというのは、キャラや物語もしっかりしているのに、ライトノベルの体裁も維持してくれているので、非常に読みやすく、分量も含めて一気に読めてしまうのが素晴らしいです。
さて、今回は遊園地デート編。ただし、想定していたのと違ってデートという感触は最低限に抑えられています。祐巳と祥子の表現は少な目になって、他のキャラに随分とページを割いています。ここまでの流れというのは、かなり怒濤の展開で、変動に変動を重ねてきた訳なんですが、ここで区切りを付けるというか、一旦纏めという内容になっています。それだけに腰の落ち着いた展開だったし、キャラがよく見える話になっていました。
もう、形式的にはお別れ会も済んでしまった訳なんですが、それでも山百合会の面子としては、まだ決着していない問題もある。いや、問題というと大げさかもしれませんが、心残りのような部分があった訳で、それをそれぞれぶつけるという形になっています。それだけだと厳しいと感じたのか、志摩子さんのネタと蔦子さんのネタを追加して、ボリューム感を出し、読んでいても退屈しない、十分楽しめる内容になっていると思います。ラストの纏め方が綺麗でした。もちろんそれまでの話の展開も巧いなぁと感心してしまいました。たった一日のエピソードで飽きさせない1冊に仕上げてくるってのは、なかなかなものです。
マリア様がみてるという作品自体の主役は祐巳ちゃんで、出始めの頃にはちょっと頼りない感じというか、ロサ・キネンシスと元ロサ・キネンシスの存在感が圧倒的だったので、相対的に弱くなってしまっていたところがあるんですが、この巻では、祐巳がメンバーの中心に位置するコアとして機能しているというのを強調しています。確かに彼女にはそうなってもらわないとこれからの話が辛くなってしまうでしょう。
ちなみに、この話どこまで続くのかというのが、結構僕の周りでは話題になっていまして、祥子様卒業までだろうという説もあるんですが、僕としては祐巳卒業までやるだろうと考えています。水野蓉子の夢が福沢祐巳で成就されるという流れが美しいだろうと思っている訳です。その時は山百合会の存在自体が変化するって感じかなと想像したりしています。そう言う意味で志摩子ネタの前振りや祐巳のポジションの変化といった部分は、必要だろうなと思うし、さらなる強化が必要だろうなとも思います。
さて、あとがきで今野女史が『マリア様がみてる』はファンタジーかどうかという話を書いています。僕に言わせると、まさにこの作品は一級のファンタジーだと思っています。携帯電話が云々という話を出していますが、そんなのは手法の一つであって、本筋ではありません。ファンタジーのファンタジーたる所以というのは、そのリアリティーの高さにある訳です。リアルじゃなくてリアリティーというところが重要です。
最近ではリアルであることが受けている小説などもあるようですが、僕らにしてみれば、リアルの中に生きているのに、物語にまでリアルを求めても仕方がない訳です。しかも、リアルっぽいだけの出来損ないなんて願い下げです。そんなものは、実際のリアルに触れていない、保護されているようなお子様だけがありがたがるもので、とてもそれ以上の人間の鑑賞に耐えられるものじゃないでしょう。僕らが求めているのは、リアルではなくてリアリティーの方です。
その違いは簡単で、リアリティーというのは、リアルじゃないものをリアルに見せる技法のことを指します。何から何までリアルのものを借りてきたというのはリアリティーとは呼びません。よくRPGの舞台になるような、剣と魔法と妖精の世界に、現在の我々の世界観、社会観、そういうものを合わせ込む。それがリアリティー。その世界観が詳細になればなるほどリアリティが上がって、あるはずのないものが、あたかもそこにある、あるいはあったと錯覚させる。ありそうで、実はない。それこそがリアリティの本質です。
で、『マリア様がみてる』はというと、RPGの世界とは逆パターン。世界観、社会観自体は実際にあっても不思議じゃない、あるかもしれないという内容になっています。そこに済むキャラや物語の不自然さをその世界観や社会観で包むことで、リアリティを作り出している訳です。マリア様がみてるの世界観が絶対に無い世界であることの決定的な理由は、リリアン女学園とその周辺には悪意が無いという点に尽きます。それこそマリア様の守護にあるかのごとく清楚な心を持った人達でこの世界は構成されています。にも関わらず、それをリアルだと感じさせるリアリティーが存在している訳です。それは世界構成とキャラ描写が優れているということの証です。マリア様がみてるが一級のファンタジーであるという所以です。
逆に言うとこのファンタジーの度合いが適切であるというのが、マリア様がみてるの最高の魅力です。そこを設定で無理矢理ねじ曲げようとすると、物語に入っていけなくなります。例えば、涼宮ハルヒシリーズは、面白いのだけど、入り込めないのはそれが理由でしょう。リアリティーを担保しているのが、前提としての設定で、それ以上になっていない。だから物語の展開は楽しかったとしても、ハルヒやみくるや有希に、祐巳や祥子や瞳子のようなキャラとしての魅力が出てくることはありません。ハルヒはSFとして成立はしていてもファンタジーとしては成立していないということです。
そうそう、瞳子ちゃん。今回は出番が少なかったけど、それでもやっぱり愛らしかったです。もう、彼女にかかるとルイズもシャナも、それ以外の何者もてんで出番が無くなるという、正真正銘、真のツンデレ女王様です。可奈子ちゃんの通訳が最高でした。GJ!
さて、今回は遊園地デート編。ただし、想定していたのと違ってデートという感触は最低限に抑えられています。祐巳と祥子の表現は少な目になって、他のキャラに随分とページを割いています。ここまでの流れというのは、かなり怒濤の展開で、変動に変動を重ねてきた訳なんですが、ここで区切りを付けるというか、一旦纏めという内容になっています。それだけに腰の落ち着いた展開だったし、キャラがよく見える話になっていました。
もう、形式的にはお別れ会も済んでしまった訳なんですが、それでも山百合会の面子としては、まだ決着していない問題もある。いや、問題というと大げさかもしれませんが、心残りのような部分があった訳で、それをそれぞれぶつけるという形になっています。それだけだと厳しいと感じたのか、志摩子さんのネタと蔦子さんのネタを追加して、ボリューム感を出し、読んでいても退屈しない、十分楽しめる内容になっていると思います。ラストの纏め方が綺麗でした。もちろんそれまでの話の展開も巧いなぁと感心してしまいました。たった一日のエピソードで飽きさせない1冊に仕上げてくるってのは、なかなかなものです。
マリア様がみてるという作品自体の主役は祐巳ちゃんで、出始めの頃にはちょっと頼りない感じというか、ロサ・キネンシスと元ロサ・キネンシスの存在感が圧倒的だったので、相対的に弱くなってしまっていたところがあるんですが、この巻では、祐巳がメンバーの中心に位置するコアとして機能しているというのを強調しています。確かに彼女にはそうなってもらわないとこれからの話が辛くなってしまうでしょう。
ちなみに、この話どこまで続くのかというのが、結構僕の周りでは話題になっていまして、祥子様卒業までだろうという説もあるんですが、僕としては祐巳卒業までやるだろうと考えています。水野蓉子の夢が福沢祐巳で成就されるという流れが美しいだろうと思っている訳です。その時は山百合会の存在自体が変化するって感じかなと想像したりしています。そう言う意味で志摩子ネタの前振りや祐巳のポジションの変化といった部分は、必要だろうなと思うし、さらなる強化が必要だろうなとも思います。
さて、あとがきで今野女史が『マリア様がみてる』はファンタジーかどうかという話を書いています。僕に言わせると、まさにこの作品は一級のファンタジーだと思っています。携帯電話が云々という話を出していますが、そんなのは手法の一つであって、本筋ではありません。ファンタジーのファンタジーたる所以というのは、そのリアリティーの高さにある訳です。リアルじゃなくてリアリティーというところが重要です。
最近ではリアルであることが受けている小説などもあるようですが、僕らにしてみれば、リアルの中に生きているのに、物語にまでリアルを求めても仕方がない訳です。しかも、リアルっぽいだけの出来損ないなんて願い下げです。そんなものは、実際のリアルに触れていない、保護されているようなお子様だけがありがたがるもので、とてもそれ以上の人間の鑑賞に耐えられるものじゃないでしょう。僕らが求めているのは、リアルではなくてリアリティーの方です。
その違いは簡単で、リアリティーというのは、リアルじゃないものをリアルに見せる技法のことを指します。何から何までリアルのものを借りてきたというのはリアリティーとは呼びません。よくRPGの舞台になるような、剣と魔法と妖精の世界に、現在の我々の世界観、社会観、そういうものを合わせ込む。それがリアリティー。その世界観が詳細になればなるほどリアリティが上がって、あるはずのないものが、あたかもそこにある、あるいはあったと錯覚させる。ありそうで、実はない。それこそがリアリティの本質です。
で、『マリア様がみてる』はというと、RPGの世界とは逆パターン。世界観、社会観自体は実際にあっても不思議じゃない、あるかもしれないという内容になっています。そこに済むキャラや物語の不自然さをその世界観や社会観で包むことで、リアリティを作り出している訳です。マリア様がみてるの世界観が絶対に無い世界であることの決定的な理由は、リリアン女学園とその周辺には悪意が無いという点に尽きます。それこそマリア様の守護にあるかのごとく清楚な心を持った人達でこの世界は構成されています。にも関わらず、それをリアルだと感じさせるリアリティーが存在している訳です。それは世界構成とキャラ描写が優れているということの証です。マリア様がみてるが一級のファンタジーであるという所以です。
逆に言うとこのファンタジーの度合いが適切であるというのが、マリア様がみてるの最高の魅力です。そこを設定で無理矢理ねじ曲げようとすると、物語に入っていけなくなります。例えば、涼宮ハルヒシリーズは、面白いのだけど、入り込めないのはそれが理由でしょう。リアリティーを担保しているのが、前提としての設定で、それ以上になっていない。だから物語の展開は楽しかったとしても、ハルヒやみくるや有希に、祐巳や祥子や瞳子のようなキャラとしての魅力が出てくることはありません。ハルヒはSFとして成立はしていてもファンタジーとしては成立していないということです。
そうそう、瞳子ちゃん。今回は出番が少なかったけど、それでもやっぱり愛らしかったです。もう、彼女にかかるとルイズもシャナも、それ以外の何者もてんで出番が無くなるという、正真正銘、真のツンデレ女王様です。可奈子ちゃんの通訳が最高でした。GJ!
スポンサーサイト
この記事のトラックバックURL
http://kazus.blog66.fc2.com/tb.php/3803-54aaf900
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック
マリア様がみてる キラキラまわる (マリア様がみてるシリーズ) (コバルト文庫)(2007/12/26)今野 緒雪商品詳細を見る「マリア様がみてる キラキラまわる」コバルト文庫
今野緒雪(イラスト・ひびき玲音)
こ...
2011/06/10(金) 19:12:43 | 夜空の日記