「なぜ人を殺してはいけないのか?」
もう過去にも何度も為された問いでしょう。にも関わらずまた同じ質問がされる。しかも、その回答にまるで説得力がない。それは何故かと言えば、人を殺すという行為はいけないことではないからでしょう。
自分がされると嫌なこと云々 → じゃあ自分が殺される、あるいは殺されそうになっても構わないと思っている人間なら、他人を殺してもいいということになる。
人類あるいは社会を維持するため → 人類あるいは社会を維持することが善であるという前提がなければ成立しない。更には現状を維持しなければならない理由も不明である以上、一定数に減るまでは殺しても構わないという理屈も成立する。
悲しむ人が居るから → 居なければいいのか? 条件が設定されるならなんとでもなる。
決まりだから、法律だから、本能だから、無条件に → 論外。
大体出てくる回答なんてのはこの程度のものでしょう。所詮正義とか良識とか常識なんてものはこの程度で構成されているという典型的な見本です。人を殺すのは善し悪しでは無いということです。ただし、人を殺せば当然復讐される可能性が増大します。そのリスクが大抵の場合見合わないので、「殺さない方が上手い生き方だ」というだけです。
本来、自分の行動の責任は自分が取るというのが原則ですが、その手間が面倒だから、国家に委任しているわけです。一般性のある善悪は基本的には存在せず、あるのは個々の感覚における善悪のみです。あくまでも、国家としてそのコストを最小限にする為に最大公約数的な意味でのHow toを法律という形にしているだけで、法律が正しい訳でも、正義な訳でもありません。あくまでも相応の責任が発生する一般に高コストな行為であるというだけです。
なので、人を殺したヤクザが様々な人から命を狙われつつ生き続けるよりも、年齢や精神状態によって権威の保護の下堂々と許されたり、組織に隠れて人の命を堂々と奪うような連中の方が、僕の基準の善悪で言えば余程悪です。合法ヤクザが非合法ヤクザよりも悪だと主張するのは、そのためです。
法律や国家の維持が絶対的な条件だと思い込んでいる人間には理解できない考え方でしょうが、現状の法律や国家、社会体制はあくまでも一つの形式というだけで、絶対的な意味はありません。これも現状を維持することが最もコスト的に低いというだけで、必要なコストを支払っても現状を破壊する方が良いという場合も当然あります。
ほとんどの人にとって正義と呼ばれる概念は、感覚的なものでしかなく、詳細な部分は国家や法律、常識などに依存しているということです。そして、それらの正義も所詮は限定的な条件下でのみ有効になる程度のものです。一般概念としての正義というのがどれくらい難しいものか、それを安易に振りかざすことが如何に愚かしいことかを認識する必要があるでしょう。
ただし、個々のレベルに落とせば正義は容易に成立します。親が子供に、誰かが友人に対して「人を殺すのは良くない」というのは、それによって、子供や友人に大きな責任が発生する。それを自分達が負担させられる可能性もある。等々の理由で正しいということができます。あくまでもそれはローカルなルールであって、そうでない選択もあり得るということを想定しなくてはならないでしょう。自分達にそれが成立するからと言って、一般性が確保されているという保証は全くありません。
別に殺人を推奨している訳ではありません。現時点においては、人は殺さない方が無難な選択であることは間違いないからです。相当な覚悟が無い限りそういうことをするのは悪ではないにしても愚かなことです。だからこそ、きちんとした自覚も無い癖に人を殺しておいて、殺意がなかったから、計画的ではなかったからなんて逆の理由で減刑される。それがまかり通り、正しいとされている現実はトチ狂っているとしか思えない訳です。
もう過去にも何度も為された問いでしょう。にも関わらずまた同じ質問がされる。しかも、その回答にまるで説得力がない。それは何故かと言えば、人を殺すという行為はいけないことではないからでしょう。
自分がされると嫌なこと云々 → じゃあ自分が殺される、あるいは殺されそうになっても構わないと思っている人間なら、他人を殺してもいいということになる。
人類あるいは社会を維持するため → 人類あるいは社会を維持することが善であるという前提がなければ成立しない。更には現状を維持しなければならない理由も不明である以上、一定数に減るまでは殺しても構わないという理屈も成立する。
悲しむ人が居るから → 居なければいいのか? 条件が設定されるならなんとでもなる。
決まりだから、法律だから、本能だから、無条件に → 論外。
大体出てくる回答なんてのはこの程度のものでしょう。所詮正義とか良識とか常識なんてものはこの程度で構成されているという典型的な見本です。人を殺すのは善し悪しでは無いということです。ただし、人を殺せば当然復讐される可能性が増大します。そのリスクが大抵の場合見合わないので、「殺さない方が上手い生き方だ」というだけです。
本来、自分の行動の責任は自分が取るというのが原則ですが、その手間が面倒だから、国家に委任しているわけです。一般性のある善悪は基本的には存在せず、あるのは個々の感覚における善悪のみです。あくまでも、国家としてそのコストを最小限にする為に最大公約数的な意味でのHow toを法律という形にしているだけで、法律が正しい訳でも、正義な訳でもありません。あくまでも相応の責任が発生する一般に高コストな行為であるというだけです。
なので、人を殺したヤクザが様々な人から命を狙われつつ生き続けるよりも、年齢や精神状態によって権威の保護の下堂々と許されたり、組織に隠れて人の命を堂々と奪うような連中の方が、僕の基準の善悪で言えば余程悪です。合法ヤクザが非合法ヤクザよりも悪だと主張するのは、そのためです。
法律や国家の維持が絶対的な条件だと思い込んでいる人間には理解できない考え方でしょうが、現状の法律や国家、社会体制はあくまでも一つの形式というだけで、絶対的な意味はありません。これも現状を維持することが最もコスト的に低いというだけで、必要なコストを支払っても現状を破壊する方が良いという場合も当然あります。
ほとんどの人にとって正義と呼ばれる概念は、感覚的なものでしかなく、詳細な部分は国家や法律、常識などに依存しているということです。そして、それらの正義も所詮は限定的な条件下でのみ有効になる程度のものです。一般概念としての正義というのがどれくらい難しいものか、それを安易に振りかざすことが如何に愚かしいことかを認識する必要があるでしょう。
ただし、個々のレベルに落とせば正義は容易に成立します。親が子供に、誰かが友人に対して「人を殺すのは良くない」というのは、それによって、子供や友人に大きな責任が発生する。それを自分達が負担させられる可能性もある。等々の理由で正しいということができます。あくまでもそれはローカルなルールであって、そうでない選択もあり得るということを想定しなくてはならないでしょう。自分達にそれが成立するからと言って、一般性が確保されているという保証は全くありません。
別に殺人を推奨している訳ではありません。現時点においては、人は殺さない方が無難な選択であることは間違いないからです。相当な覚悟が無い限りそういうことをするのは悪ではないにしても愚かなことです。だからこそ、きちんとした自覚も無い癖に人を殺しておいて、殺意がなかったから、計画的ではなかったからなんて逆の理由で減刑される。それがまかり通り、正しいとされている現実はトチ狂っているとしか思えない訳です。
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