「考えるな、『心』で読め!」?『ケータイ小説がウケる理由』
どんなジャンルのものにも、こういうものはあります。それが間違っているという訳じゃない。個人的には嫌いですけど、それはあくまでも個人の趣向であって、それがいけない訳じゃない。なんにも考えずに、ただ感じるままに何かをしたいという時があるというのも事実でしょう。
要は、それだけにならなければ良いんじゃないでしょうかね。読む側も何も考えずに、ただ感じられるものを読む時もあれば、ちゃんと考えながら読むことを要求されるような作品を読む時もある。それがバランスされていればそれはそれでいいんじゃないかという気がします。
ただ、この記事でも「本は「心」で読めない?」と疑問にされているように、そのボーダーが落ちてきているのではないかと危惧する気持ちは分かります。そして、感じるだけのものが数百万部も売れているという事実を見ると、そういう人間は実は多いんじゃないだろうか。と思ってしまうのは仕方ないことでしょう。
好きか嫌いかは感じることで解決しますけど、良いか悪いかは考えなければ結論が出せません。もし、内容について考えることを拒絶しているのがケータイ小説というものであるなら、それは評価に値しないものであるというのは間違いないでしょう。考えないってことは、動物のレベルに自分を落とすということになりますからね。ただし、そういうものも必要ではあります。世の中の全てのものが評価されなければならない訳じゃないですから、それはそれでアリだろうと言われればその通りです。
〈ケータイ小説は、私にとって読書という感覚ではないんですね。本を読んでいるときは「頭」を使って読んでいる気がしますが、ケータイ小説は「心」で読んでいる気がします〉
どんなジャンルのものにも、こういうものはあります。それが間違っているという訳じゃない。個人的には嫌いですけど、それはあくまでも個人の趣向であって、それがいけない訳じゃない。なんにも考えずに、ただ感じるままに何かをしたいという時があるというのも事実でしょう。
要は、それだけにならなければ良いんじゃないでしょうかね。読む側も何も考えずに、ただ感じられるものを読む時もあれば、ちゃんと考えながら読むことを要求されるような作品を読む時もある。それがバランスされていればそれはそれでいいんじゃないかという気がします。
ただ、この記事でも「本は「心」で読めない?」と疑問にされているように、そのボーダーが落ちてきているのではないかと危惧する気持ちは分かります。そして、感じるだけのものが数百万部も売れているという事実を見ると、そういう人間は実は多いんじゃないだろうか。と思ってしまうのは仕方ないことでしょう。
好きか嫌いかは感じることで解決しますけど、良いか悪いかは考えなければ結論が出せません。もし、内容について考えることを拒絶しているのがケータイ小説というものであるなら、それは評価に値しないものであるというのは間違いないでしょう。考えないってことは、動物のレベルに自分を落とすということになりますからね。ただし、そういうものも必要ではあります。世の中の全てのものが評価されなければならない訳じゃないですから、それはそれでアリだろうと言われればその通りです。
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