いじりといじめについて、あるいは悪いコミュニケーション
いじりが本当のところどうなのかは置いといて、それでもこの理屈で悪いとすることは出来ないだろうと感じます。怒らせる可能性が高いから駄目というけれど、じゃあどういうやり方なら怒らせる可能性が低いと言えるのだろうか。理路整然と批判されるとかえって怒りやすい人だって居るかもしれない。相手を怒らせる可能性云々と言い出したら、何も出来なくなってしまうんじゃないだろうか。
怒った相手に対して、何故怒ったか判らないと反応する時、本当に判らない場合だってあるでしょう。挨拶したら相手が怒り出したって時に「しまった言い過ぎた」と考える人間は希でしょう。そう考えなくても相手への敬意が足りないとも思わない。
僕は実際にはこの話の元となっている「いじり」がどのようなものだったのか知りません。だから、実際にはこのいじりが酷い挑発で、敬意の欠片も感じられない内容であったのかもしれない。けれど、それを理由に悪であると一般化するのはやっぱり危険だろうと感じます。
「この事実」はあくまでも、かなりの前提と制約の上で成立している。ということを認識することでしょう。ある場面で正しいことであったとしても、それが常に正しいわけじゃない。規制賛成派にも通じることですが、局所的、限定的な正しさで全てを括ろうとすると、とんでもないことになってしまいます。
いじりが本当のところどうなのかは置いといて、それでもこの理屈で悪いとすることは出来ないだろうと感じます。怒らせる可能性が高いから駄目というけれど、じゃあどういうやり方なら怒らせる可能性が低いと言えるのだろうか。理路整然と批判されるとかえって怒りやすい人だって居るかもしれない。相手を怒らせる可能性云々と言い出したら、何も出来なくなってしまうんじゃないだろうか。
怒った相手に対して、何故怒ったか判らないと反応する時、本当に判らない場合だってあるでしょう。挨拶したら相手が怒り出したって時に「しまった言い過ぎた」と考える人間は希でしょう。そう考えなくても相手への敬意が足りないとも思わない。
僕は実際にはこの話の元となっている「いじり」がどのようなものだったのか知りません。だから、実際にはこのいじりが酷い挑発で、敬意の欠片も感じられない内容であったのかもしれない。けれど、それを理由に悪であると一般化するのはやっぱり危険だろうと感じます。
「この事実」はあくまでも、かなりの前提と制約の上で成立している。ということを認識することでしょう。ある場面で正しいことであったとしても、それが常に正しいわけじゃない。規制賛成派にも通じることですが、局所的、限定的な正しさで全てを括ろうとすると、とんでもないことになってしまいます。
この記事へのコメント
>相手を怒らせる可能性云々と言い出したら、何も出来なくなってしまうんじゃないだろうか。
>挨拶したら相手が怒り出した
「普通の」コミュニケーションや挨拶ではあんまり相手は怒りません。そんなところまで相手の気に障る可能性考えたらたしかに何もできなくなるので、意味がありません。
が、これは「いじり」という、最初から相手の気に障りうるリスクを抱えた「特殊な」コミュニケーションの話であります。
むしろ、局所的・限定的な話を一般化しているのはKazu'Sさんのほうだと愚考いたします。
>挨拶したら相手が怒り出した
「普通の」コミュニケーションや挨拶ではあんまり相手は怒りません。そんなところまで相手の気に障る可能性考えたらたしかに何もできなくなるので、意味がありません。
が、これは「いじり」という、最初から相手の気に障りうるリスクを抱えた「特殊な」コミュニケーションの話であります。
むしろ、局所的・限定的な話を一般化しているのはKazu'Sさんのほうだと愚考いたします。
言いたいことはYuu Arimura氏に言われているので、一つだけ。
このようなエントリを書いているということは、「いじり」に積極的な意義を認める余地がある、とお考えのように見えますが、それはどのようなものでしょうか?
ご回答くださると幸いです。
このようなエントリを書いているということは、「いじり」に積極的な意義を認める余地がある、とお考えのように見えますが、それはどのようなものでしょうか?
ご回答くださると幸いです。
では弄りと称するものの定義をはっきりとさせてから話をするべきでしょう。特殊だというならどのように特殊なのか、まずは明確にして頂きたいですね。大体「普通の」ってなんなんですか? 貴方の普通が完全無欠の普遍的なものとでも思っているんですか? あり得ません。その発想自体に吐き気がします。
それをせずに弄りと括ってそれを全部悪だと決めつけるのを、局所的・限定的なものの一般化というと僕には思えますがね。
弄りに積極的な意味があるか無いかについても、それがはっきりしないとでしょう。少なくとも定義を明確しない特殊な状況とやらを悪だと断定するのは、積極的に拒絶する意味があると考えます。
それをせずに弄りと括ってそれを全部悪だと決めつけるのを、局所的・限定的なものの一般化というと僕には思えますがね。
弄りに積極的な意味があるか無いかについても、それがはっきりしないとでしょう。少なくとも定義を明確しない特殊な状況とやらを悪だと断定するのは、積極的に拒絶する意味があると考えます。
そうですね。では、ここで暫定的にいじりの定義をはっきりさせておきます。
私の考える「いじり」とは、「相手の特徴を笑いのネタにする」ことです。
これは私の観察する限り「相手の特徴を欠点と決めつけて嘲笑する」という形式をとります。
こうした嘲笑は相手に対する酷い挑発であり、敬意の欠片も認められません。
「相手の特徴を笑いのネタにする」ことが容認される場合というのは極めて限定的であり、
とても一般的と呼べるようなものではないと思っています。
私の考える「いじり」とは、「相手の特徴を笑いのネタにする」ことです。
これは私の観察する限り「相手の特徴を欠点と決めつけて嘲笑する」という形式をとります。
こうした嘲笑は相手に対する酷い挑発であり、敬意の欠片も認められません。
「相手の特徴を笑いのネタにする」ことが容認される場合というのは極めて限定的であり、
とても一般的と呼べるようなものではないと思っています。
「相手の特徴を笑いのネタにする」ことと、
「相手の特徴を欠点と決めつけて嘲笑する」
ことには相当の開きがあります。
ですが、後者だとしましょう。それに意味がある場合ですが、例えば
それによって降着した状態に変化を付けられる可能性がある場合
などは挙げられるでしょう。つまり道化という役回りは必ずしも
不幸であるとは限らないということはあると思います。例え自ら望んで
そうなった訳ではないとしてもです。逆にそれで救われるということさえ想定できます。
ただし、それが一般的に通用する状態であるとは言いません。
弄りが結果としてどちらであったとしても、最終的な結実はそれほど単純な
要因で決定するものではないと思います。
仮に、弄った側が挑発を目的としていたり、敬意の欠片も認められなかったとしても、それが必ず悪い結果に結びつくとか、その行為そのものが絶対的な悪であるという結論にはなりません。ある状況を前提した場合は、その場では弄りは悪であるということが真理であったとしても、やはりそれは全てに通用するものでは無いということです。
「相手の特徴を欠点と決めつけて嘲笑する」
ことには相当の開きがあります。
ですが、後者だとしましょう。それに意味がある場合ですが、例えば
それによって降着した状態に変化を付けられる可能性がある場合
などは挙げられるでしょう。つまり道化という役回りは必ずしも
不幸であるとは限らないということはあると思います。例え自ら望んで
そうなった訳ではないとしてもです。逆にそれで救われるということさえ想定できます。
ただし、それが一般的に通用する状態であるとは言いません。
弄りが結果としてどちらであったとしても、最終的な結実はそれほど単純な
要因で決定するものではないと思います。
仮に、弄った側が挑発を目的としていたり、敬意の欠片も認められなかったとしても、それが必ず悪い結果に結びつくとか、その行為そのものが絶対的な悪であるという結論にはなりません。ある状況を前提した場合は、その場では弄りは悪であるということが真理であったとしても、やはりそれは全てに通用するものでは無いということです。
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