FC2ブログ
Kazu'Sが感じたことを遠慮無しに書き込む為のBlog。気分が悪くなっても知りません(笑) 自己責任で。 基本アニメレビュー。「シムーン」「RED GARDEN」。最近はひたぎ蕩れでミナ蕩れです。

英数字が5割以上のコメント、TBは投稿制限しています。またスパムと判断されるものは問答無用で削除します。
俺のような奴は死んだ方がマシだと考えてる人には死んで欲しくない。

社会の理想型として、あるいは当面の目標として、方向は間違っていないと思います。けど、それを国家という枠組みに収めてしまおうと最後にするから、歪んでしまっているように思えます。実際話の途中では、社会とか共同体とかの表現を使っているのに、それが最後には国に飛躍してしまっています。実は、この形式は個人が社会に還元するという考え方だけじゃなくて、個人主義を純化していっても同じ内容に帰結することになります。それは

社会が無ければ人は無く、人が無ければ社会も無い


ということを認識できれば、自ずとそこに対する関係性をどうするべきなのかというのを考えざるを得ないからです。けれど、社会、特に国家というものを先に定位させると、その国家に如何に従順に帰属するかという要素が発生します。その行動基準、選択基準は国家が、つまり権力者が定めたものになり、その基準で貢献が認められるか否かが判断されることになります。つまり少なくとも一部の人間に対しては「趣味の一貫で何か出来ればよい」とはならなくなってくる訳です。

「先人たちが民衆に課すハードルを高く設定しすぎ」たのは何故かというと、ハードルの高さを他人の基準に任せたからに他ならない訳です。ハードルの高さは自由でどんなに低くても構わないというなら、ゲスだろうがクズだろうか認めなければならないということになる。けれど、国家にはそれは出来ない。だから国家という基準を想定した瞬間にこの理屈は成立しなくなります。

個人主義は社会へ貢献しないというのは、勘違いでしかありません。むしろ個人であるということの認識を強めれば強めるほど個人は社会に対し積極的かつ主体的に関わるしかなくなります。国家も村も家も家族も無い個人はその社会の要員として生きるしか無いとすぐに気付くでしょう。そこでその個人に求められるのは、自らの言動に応じた責任を必ず負うという原則のみという構造が出来上がれば、ここで書かれているような状況の実現可能性が出るかもしれません。

国家は人間を従属させることは出来ても、人間が国家を構成することは出来ない。できたとしても、非情に困難で未だ成功例は無い。それが国家という形式が出来てから現在までの歴史で証明されたことでしょう。
スポンサーサイト



FC2テーマ:社会 | カテゴリー:社会
トラックバック:0 | コメント:2 | Page Top↑
コメント
この記事へのコメント
管理人のみ閲覧できます
このコメントは管理人のみ閲覧できます
2008/09/05(金) 19:43 | | #[ 編集]
コメントありがとうございます
もの凄く鋭く、かつ興味深いコメントを頂きました。公開できないのが残念です。おっしゃっている要因はその通りだと思います。ただ、人間という生物の力として、以前はそういう形態が必要だったというのはあるでしょう。けれど、その形態が今でも必要なのか、これからも必要なのかというと、そうとは限らないだろうと考えています。勿論そのためにはまだまだ人間に変化が起きる必要はあるでしょうが。
2008/09/05(金) 21:34 | URL | Kazu'S #RK6wHsAg[ 編集]
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://kazus.blog66.fc2.com/tb.php/5101-5f83d7a9
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック