といって、そこに旧日本軍にひかれた若者像をだぶらせるのは早い。
とわざわざ断らなければならない程に危険な兆候ということだろう。吐き気がするような事態だと感じる。結局他力本願であるということを認めてしまっているから、企業のせいだとか社会のせいだとか、そういう発想になる。弱者救済を大儀とする考え方が存在するということは認められるけれど、それは必ずしも真実とは限らない。そもそも誰かに与えられた大儀を真実と信仰することは当然健全とはほど遠い精神構造だ。
結局現時点では、何かがあっても誰かに助けて貰えるという連中だけがそれに乗っかっているだけであって、本質的な意味では過去となんらやり方は変わっていない。目の前にぶら下げている餌の食材を変えたに過ぎない。その場その場の欲求だけで判断を下しているという意味では、フリーターと何ら変わるところがない。その差は大儀があるかないかでしか無い訳だ。
企業が世間知らずな学生達をどうやって集めるかという点だけに話を集約するならば、ある程度の効果はあるのかもしれない。けれど、これを以て本質的な何かが変わったと判断するのは完全に間違っているように感じられる。
結局大儀などという怪しげな言葉を使った段階で、それに群がるような連中は危険だと考えざるをえないでしょう。それに更に一定の自己犠牲が伴うとなると益々始末が悪い。自分は大儀の為にこれだけの犠牲を払っているのにという理屈が働くからだ。自分が正しいと信仰することのためならば、他人に対して銃を撃つことも当然だ。という発想はこの思考パターンから生まれる。大儀や正義を口にする連中はまず疑ってかかるべきで、その発想はテロリストと同じだ。
企業がその手法を持ち出すということは、結局はまた企業の奴隷を再生産をどのようにするかということでしかない。それはすなわち『目先の収益の確保以外』考えていないということでしかないだろう。そんな発想をしている内は、最終的には企業としてまともなものにはならないと容易に想像できます。
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