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Kazu'Sが感じたことを遠慮無しに書き込む為のBlog。気分が悪くなっても知りません(笑) 自己責任で。 基本アニメレビュー。「シムーン」「RED GARDEN」。最近はひたぎ蕩れでミナ蕩れです。

英数字が5割以上のコメント、TBは投稿制限しています。またスパムと判断されるものは問答無用で削除します。
部族社会と大きな社会

共同体の崩壊が必然であるという部分には完全に同意できます。共同体という形式の役割は徐々に消えていくでしょう。今のところ最後までしぶとく残るんじゃないかなと思えるのが、国家と家族でしょうが、その二つの存在意義が消滅した時に、初めて社会全体に及ぶ変革が実行されるんじゃないかと思います。ですから、それが消えていっているという状況は諸手を挙げて歓迎するべきです。

コメントに描かれていますが、共同体が無い社会と言うと冷たい社会であるという印象を持つ人も多いようです。けれど、それは完全な勘違いで、差別も孤立も共同体が存在することで発生する現象でしかありません。共同体が存在することで、それとは異質のものを区別したり、そこに所属できないことを感じたりする訳です。共同体の崩壊と聞いて、マイナスのイメージを持つのであれば、もう少し思考を柔軟にする訓練を積む必要があるでしょう。こういう前提条件が変わってしまった想定に対して、現状の価値観を持ち込む行為は全く無意味です。

共同体が存在しないということは、すなわち個人が社会と直結するということを意味します。例えば、現在では他人の家の事、他所の県の事、外国の事には無関心になりがちですが、地球の裏側で起きたことであっても、それが自分に直接繋がっているともし感じることができれば、社会は大きく変化することになるでしょう。自国に資源や利益が欲しいからと言って、他国にミサイルを打ち込むなどという愚かしい真似は絶対に許されなくなるはずです。

「強い個人」を建前にしたとありますが、弱い個人が淘汰されてはいけない理由が僕には見つかりません。むしろ当然淘汰されるべきだと思っています。なんでも他人任せ、なんでもお上任せなんて発想で動いている連中には今すぐにでも消えてもらいたいくらいです。人間が、現在の意味での共同体のような矮小な枠に収まっていることが様々な、そして重大な問題の温床になっています。

僕は経済学には明るくないので、経済学的な観点から見た場合は判りませんが、少なくとも原則的には共同体を打破するということは、当然進むべき方向であり、それについて行けない旧態のままな人間は淘汰されるのが自然でしょう。
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日本経団連の移民受け入れ策は亡国の政策

なにか偉そうなことを言っているが、結局は民族主義的保守思考から抜け出せていないようにしか見えない。余裕が生まれればクリエィティブな何かが出来るとでも思っているらしいけれど、それは何の根拠も無いだろう。実際ここで上げられているアニメや漫画は余裕とはほど遠い環境で制作されているというのは有名な話だし、余裕ぶっこきで生きているはずのニートがクリエィティブかというと、当然そんなことはない。イタリアの製品が魅力的なのは、その文化的基盤こそが重要なポイントなのであって、余裕を持っているとかそんな単純な理由で無いことは明白でしょう。

外国人労働者が入ってきて、日本人労働者の収入が落ちる可能性がある。ということを認めたとして、けれどその分外国人労働者が日本で稼いだ金を使ってくれるのであれば日本の内需のマスとしては増えることになるでしょう。企業としては、別に日本人に買ってもらわなくても構わない訳で、お金を払ってくれる人は誰でも同じってことだ。

社会的コストが増加すると書かれているけれど、外国人労働者だって税金はちゃんと払うだろう。日本で働く限りは日本の社会制度に組み込まれる訳だ。日本人だけでは頭数が足りなくなるというのは明白なのだから、そうするしか無いだろうというのは説得力がある。

それに対して、個々の能力をかさ上げしましょうというのは、机上の代案としては成立するかもしれないけれど、実際にはそう簡単なことじゃない。日本人だろうと外国人だろうと、馬鹿は馬鹿だし、無能は無能だ。それをいきなり現状よりも効率よく稼げるように変えるなどという便利な魔法は恐らく存在しない。

単純労働の価値が下がり続けるのは当然のことだし、それが一般的な労働にまで及ぶのも必然だと僕は思う。それについて行けないものは、日本人であろうが外国人であろうが淘汰されるのは仕方がないことだろう。彼らに対して何らかの保証をもし用意するとしても、それが出来るのは人種、国籍に関わらず高度な人材をより集められる社会体制のみでしょう。その受け入れ体制が整っていないなら一刻も早く整える必要があるでしょう。日本人は優秀だからなどという幻想に浸っていると取り返しが付かない状況になってしまうのではないだろうか。

まぁ糞役人の型にはまった規制は何の意味もないだけでなく害悪である。という意見については完全に同意できます。奴等の権限は少なくればするだけ社会は良くなるでしょう。それは間違いないとは思います。
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「力の論理」が失わせたもの

個人的には何が言いたいのかは掴めるんだけど、書き方がお粗末なので勘違いを誘発することになってしまうでしょう。犯罪行為が行われる場合、特に最後に書かれているような暴力的な行為の場合を抽出してしまえば、強いものが弱いものをという構図が見えてくるのはある意味当然のことで、弱者が強者に対して暴力行為を行うというのは、原則的にはあり得ない。逆に言えば、子の親殺しのようにそれが逆転するような現象の方が余程異常な状態な訳だ。

延々と芸能界のことを書いているけれど、その部分に関しては概ね正しい。それは資本主義の原則であり、資本主義は文化の敵であるから、番組を文化的な視点から見た時には、資本主義は悪役に回ることが圧倒的に多くなります。逆に単純な大衆娯楽であると見てしまえば、テレビ番組が面白くなろうが詰まらなくなろうがそれは大した問題じゃなく、大衆の文化レベルに従って番組のレベルも変化するということになるだけ。番組が詰まらないというのは、資本主義的には大衆がその程度の文化レベルしか持っていないということを証明しているだけのことだ。

プロデューサーの気概を求めるというのは悪くないけれど、それは大きなギャンブルであることは間違いないことで、資本主義の成熟と共にそれだけ効率化が進み、結果ミスは許されないという状況が作り出されてしまった。遠回りすることはそれだけ負けに繋がる可能性が広がることになる訳で、誰もがコンサバになってくるというのは、特にミスが無ければ後はそれなりにというルートが確保されている立場程強くなる。それは役人共が全く使えないのと同じ理由だ。

この状況の責任は力の頂点に立つ大企業にあるのではなく、資本主義は絶対であると無邪気に信じている大衆の側にある。昨今のKYブームもそうだけれど、流れに乗ることを無意識的に強制するような雰囲気が今の社会にはあります。結局数が集まればそれが正義だというのは、資本主義的、民主主義的な原則であるわけだから、それが絶対では無いとするには相当の精神力が必要になるんだと思います。未だに資本主義に絶対的な信仰を持っているという人は過半数を遙かに超えています。この数が減らない限り、より効率的に力を得て、それを集約することが正義であるという理屈は正しいということになり続けるでしょう。
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パチンコホールが日本から消える日
パチンコ、スロットを全くやらない人間からすれば、大歓迎としか言いようがない。なんだかんだ言ってもパチンコホール周辺はどうしても柄が悪い。建物も珍妙な形態なものも少なくなく、はっきり言って無くなってもらった方がありがたい。

正直言ってこれまでは数がありすぎたと思えます。街1つに1店か2店程度で十分でしょう。もしくはいわゆる繁華街と呼ばれる場所にのみ出店を限定させるとかにしてしまうのもいいかもしれない。

ギャンブル自体を否定するつもりはないけれど、それはやっぱり興味がない人間から隔離した形で行われるべきでしょう。そこらかしこに普通に見かけるという常態が正常だとは到底思えません。
裁判員制度は、世界に類を見ないモンスターになる

裁判員制度が危険だと言う話から始まって、日本の法律運用全般に駄目出しをしています。個人的にはこの認識は全く正しいと思っています。そして、その対策の一つとして、ここでかかれているような機械的な法運用に修正するというのは手段の一つとして効果的だとも思います。

しかしながら、本来であれば機械的な法運用というのは出来れば避けたいものであったりします。法律というのは、原理的に絶対に完璧にならないもだからです。現実に対して常に後追いであるというのは勿論、正義の定義をある程度以上に収束した段階で、必ず一定方向からの意志というものがそこに入ることを避けることは出来ません。絶対正義は存在するという夢幻を信仰している人間以外は、厳格な法運用などというものには嫌悪感を感じるのが当然でしょう。

がしかし、それでもその方がまだマシだと思える最大の理由は、民度の低さからくる柔軟運用時の不条理が目に付くからに他なりません。特にマスコミの低レベル化と、それに踊らされることしかしらない大衆の無知さ加減が彼らに権利を与えることの危険性をクローズアップすることになっているのでしょう。

裁判員制度がモンスターになるという意見の根拠もまさにそれで、言ってみれば無作為に選出されるという点こそが危険性の根源になっているということになるでしょう。かといって誰かが選出すると言うことになると、それは何かしらの思惑が入り込む余地を残すということになりかねません。

では、どちらがまだマシと考えるかというと、権利が拡散しない方がマシだと僕は考えます。間違った方向に進み始めた時、権利保有者が仮に一人だったとするなら、極論そいつを殺してしまえば根本的な解決を計ることが可能です。ですが、権利者が国民全体ということなっていると、改善するには国民全体の民度の底上げが必須ということになる。それは上手くいっても数世代をかけて行わなければ達成できない程の重労働であり、更に大きな問題は、権利者が拡散している状態では状況の悪化が最悪の状態になるまで認識されづらいという効果まで付いてきます。

無知な大衆に権利を与えることは、凶悪な独裁者に権利を与えるよりも社会に対して致命傷になるのではないかと僕は考えています。なぜなら責任が曖昧どころか、責任が霧散する結果を招くからです。裁判員制度がそのようなシステムになるとするならば、それはやはりモンスターになる可能性が十分に高いと考えるのは当然のことなんじゃないでしょうか。
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中学校放火の少年3人に損害賠償請求へ 福岡市教委

驚異の言い分はまさしく当然だと思う。問題なのは、責任能力云々という部分と保護者に法的な管理監督責任を問えるのかがはっきりしないという部分。これこそが最大の問題。個人的には、自分でやったことは、身体を切り売りしてでも責任を果たさせるというのが当然だと思うが、まぁそれを言い出すと、また人権の意味も分かっていないような人権絶対主義者が騒ぎ出すだろうから保留するとしても、保護者の件は酷すぎる。

これだけの犯罪行為を起こしておきながら、当人は未成年だからと罪を免れ、親権者も無責任でいられるという巫山戯た制度であるなら、未成年の行動は徹底的に制限され、監視されない限り恐ろしくて仕方がない。

こういう場合の責任が曖昧だから、できちゃったとか訳の判らない理屈で、馬鹿親共が大量に発生したりする事になるんだと思う。子供を作ってそれを育てるという事に対して、それを選択したのは親権者である以上、しっかりと責任を追及するのは当然のことだと思います。

更正の面とか訳の判らない理屈で責任を曖昧にすることなど、教育上害にしかなりません。ましてや今回犯行に及んだのは、全く判断の付かない小さな子供ではなく、16歳や17歳と言ったある程度の判断は付いていなければいけない年齢な訳ですから、当人達に行動に対する責任の重さと、そういう馬鹿を育てた馬鹿親に対する責任をきっちりと追求しなければならないでしょう。馬鹿が馬鹿な行動をした場合は、相応の責任が発生するということを今の家に身体に刻み込ませておく必要があるだろうし、その他の馬鹿達に対する警告にも十分効果があるでしょう。何れにしても責任を曖昧にするというのは、百害あって一利なしで、それこそ馬鹿を育てる土壌になる愚策中の愚策です。
「エロゲーは危険な社会を作り出す凶器」――規制を求める請願、衆議院に

アダルトアニメゲーム・雑誌は「幼い少女達を危険にさらす社会を作り出していることは明らかで、表現の自由などという以前の問題」と指摘し、製造・販売について罰則を伴った法律の制定を求めている。1万449人の署名も添えられている。


以前の問題ってのは一体どういう問題をいうつもりなんでしょうか。この腐れ議院にきっちり説明して欲しいです。そもそも憲法上保障されているはずの表現の自由を、根拠薄弱な憶測だけで「以前の問題」扱い出来るというなら、この国のすべての法律は好きな時にに好きなように「以前の問題」扱い出来るということになります。個人Blogの釣りネタなら笑えるかもしれませんが、国会議員が国会に提出するとなると洒落にもなっていません。勿論、こんな荒唐無稽な話ですから、何万人だろうが何億人だろうが、署名があろうとなかろうと全く意味を為しません。

こういう馬鹿がまかりなりにも国会議員として存在しているという事態に恐怖を感じます。もし、次回の選挙でこいつが再度当選ということになれば、この国の民度は信頼に値しないということを再確認することになりますし、日本の近代民主制というシステムはまともに機能しないということを証明することになるでしょう。

この馬鹿野郎の理屈で行けば、全ての表現は政府に事前検閲されて、健全だと認められたものだけが公開可能だということになりかねません。正義面して、大衆の受けの良さそうなことを理屈を超えて当然だという風に語れる奴は政治家になるべきではないし、権力を与えてもいけません。こういう奴らこそ文化を危険にさらす社会を作り出していることは明らかで、人権など以前の問題として処分した方がいいんじゃないでしょうか。
今まさに瓦解する市場原理主義

市場原理主義に問題があった。だから統制経済にという訳にはなかなかいかないでしょう。ここでの問題は、市場主義とか資本主義というものは、それが通用する場合も結構あるけれど、万能ではないという当然のことを原理として信仰してしまったことにあるでしょう。金さえあれば何でもアリ、金さえあれば金を生み出すこともなんてことない。それは金が万能であるという事実の上で価値が担保されることで、金では補えないものというのが確保されていれば、それはそれほど問題にはならなくなります。

汗を流して働くことが必ずしもそれ以外より価値があるとは僕には思えません。100年の労働を一瞬にして無意味にするような発想を寝ながら思いつく方が価値が高いかもしれません。金を右から左にというのは、まさにこの手の錬金術だった訳ですが、それが駄目だったとしても発想自体を駄目だということはできません。

いずれにしても、一つの価値観に絶対的な信仰を認めてしまうことが危険だということでしょう。それがなんであったとしても、どれだけ偉い人が認めたとしても、どれだけ多くの人が認めたとしても、それを真理としてしまうことは危険です。唯一の教訓はシステムとして価値観を担保するという仕組みが大衆を騙すことは危険だということです。

方向を変えたとしても、同じ過ちを繰り返すということではなく、この機会に進化が見られる社会が構築されることを是非期待したいです。
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4歳の脳性まひ児殺した母親に終身刑(英)

だから母親に同情しましょう、あるいはだから社会が母親に協力しましょうという風に読めます。けど、僕に言わせれば、だったら障害のある人間からは親権を渡すという権利を剥奪するべきだになるし、親権という子供を個人の所有物にしてしまう権利そのものを排除しましょうということになる。

結局やった側の精神状態がどうであったにせよ、人を殺すということについての責任は一切減免されるべきではないというのは当然のことだと僕には思える。私だって苦しかったなどというのはなんの言い訳にもならない。言い訳として認めてはいけないものでしょう。だって、誰だって多かれ少なかれ苦しい訳です。その苦しみに耐えられるか否かというのは、それぞれ個別のケースによって異なる訳で、障害の有無に関わりません。こういう主張をするから、逆に障害者は責められる立場に追い込まれるんじゃないかって気がしますね。

ただし、ギブアップ宣言は社会で受け止められる体制をとるべきだというのが現在足りていない部分でしょう。しかしその場合当然相応の権利を放棄しなければならない。家庭生活が困難であるというのであれば、それを放棄することを許す社会体制は必要。だけどそれを選択した場合は当然親権は放棄しなければならないでしょう。

なので、世間からのプレッシャー、普通とか常識とかそういう圧力が問題の底にあるだろうという指摘は正しいと思う。けれど、その普通や常識を変えただけでは意味が無い訳で、また新しい普通や常識の圧力を生み出すだけにしかならないでしょう。なので、原則が重要になる。人間が何かを行う場合、それがどのような人間であったとしてもその行動に伴う責任というものを負わなければならない。これが絶対条件です。子供を作って親権を得るのであれば、何があっても子殺しをすればその責任を問われるべき。正直終身刑では甘すぎると思いますね。だから出来る支援があるとすれば、その権利を放棄することを許す体制を整えることでしょう。

自分の権利は保持したままで、都合の良い支援だけを求めているのだとしたら、それは弱者の怠慢であると断言できるでしょう。愛情があろうがなかろうが、そんなことで殺されてしまったのではたまりません。切ないで済ませてもらっては困ります。
なぁ、日本が独自のことをするとガラパゴスと呼んで、アメリカが独自のことをするとグローバルと言うのはやめないか?

指摘は理屈としては全く正しいと思う。けれど、日本独自仕様のことをガラパゴスと形容する場合、その観点は多分に経済的な側面を帯びているように思う。少なくとも最初は。日本の携帯電話の出来がどんなに良くても、またサイトの作りがどんなに良かったとしても、経済的に成功しているのはNokiaの方であり、そうならない限り生き残ることは難しいということでしょう。ガラパゴスが悪い訳じゃなくて、ガラパゴスは生存確率が低いというだけのことか。

アメリカだけに限らず、海外でやっていることは正義だと思っている人も中にはいるようで、そういう単純反応をしている人もそれなりには居るんでしょうが、基本的にはやっぱり世界というレベルでモノを見た時の経済的な側面に収束するんだと思う。ところが、これを非経済的なものにまで拡張し出す大馬鹿モノもよく見かけます。

経済的あるいは資本主義的な価値観で語るべきではないものを、そういう視点だけで海外でもやっているからとかって正当化しようとするのは、本当に気持ち悪い。しかも、それを聞いた一部の愚か者はその言説に説得力を感じてしまっているというのだから、更に始末が悪いです。何れにしてもアメリカのやることなんてのは善し悪しとかそういう基準で決定されているのは当然無い。それは前提にして考える必要があるのは確かでしょう。

ただ、日本人の文化的感覚というのはどうしても世界的に見れば特殊な部類に入ってしまうと思うので、余程長期的に構えない限りなかなか厳しいというのが多いんでしょう。だから迎合の傾向が強まる。絶対的な数の差がある訳ですから、それは仕方ないことかもしれません。資本主義である以上、数の暴力の前には正論などなんの役にもたたないってことなのかもしれません。

ちなみに「アメリカはソニーみたいだ」というレトリックは大爆笑しました。ちなみに、最近だとAppleみたいだと言った方がより高い効果があるかもしれません。βの頃はポリシーも感じられましたが、MSとかiPodとかになると表面だけで中身が無いので、まさしくアメリカそっくりです。が、Appleはアメリカの会社だからソニーの方がやっぱり良いかな。なんで、どっちの会社にもあまり良い印象は持ってないです。最近負けが混んできているソニーの方がまだ可愛らしいでしょうか。
福岡小1殺害:母を殺人容疑などで逮捕 「将来悲観し…」1

子供が家族の所有物であると見なされるが故の事件がまた起こりました。自分の所有物であるからどう対処しても良いはずだ、自分が面倒を見られなければ子供が可哀想だ、本当のところはどうか知りませんが、少なくともそう言う理屈で良い訳が成立するというのが現代社会の子供が直面している一番大きな危険です。

これは、殺されるとか虐待されるとかそういう直接的な被害だけに限りません。対子供に対するかなり多くの常識というものが、親権者ないしは家族、家の所有物であるという前提に成立しています。如何に子供の商品価値を高めるか、商品価値を落とさないようにするか、それを目的としたルールが多数存在しています。

この家族による家族制度の再生産が、社会の実態と合わなくなっているというのが原因で様々な悲劇が起こっています。狂った女がどうなろうと知った事じゃないですが、その巻き添えになって6歳の少年が殺されるというのはいたたまれません。心中を実行する程育児に悩むというのが、そもそも異常事態。もう家族という制度は社会的役割を終えつつあり、既に益よりも害の方が大きくなっています。そこを聖域にしているから、何をやっても対処療法にしかならず、しかも効果はあまりありません。挙げ句に訳の分からない規制が増えていく一方で、それがまた子供達を枠に閉じ込めることになるという悪循環になります。

一刻も早い家族制度の解体が必要でしょう。これ以上幼い子供が家族制度の犠牲になったというニュースを見るのは勘弁して頂きたいです。
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性的欲求? 自分の存在誇示? 児童狙う事件に識者は‥‥

さらに「複雑な社会にうまく適応できない若者が不満を抱え、自分より弱い者に刃を向けるケースも考えられる」とも述べた。



現代社会は複雑だ。というのはどうも社会認識のようですが、本当にそうなんでしょうか? 個人的には、コミュニティとの接合点が薄くなり妙なローカルルールに縛られることが無くなった。また、個々人の趣向というのが以前よりも大きく認められるようになったという意味に於いてむしろ単純化したという気がしないでもないんですが。

社会に上手く適応しなくてはならない。という思い込みが複雑にしているんじゃないだろうか。ルールに従っていれば自分というものの存在を意識する必要が無かったのに、自分の存在をきちんと意識しなければ存在を確立することが難しくなった。それが原因であるように思えてなりません。それは社会が複雑化したのでは無くて社会の構造が変化したに過ぎません。責任の主体が社会の方にあるかのような表現ですが、実際の責任は付いていけない連中にあるでしょう。

これまで枠に収まることが最も優秀であるというエリート系教育を受けてきて、その枷が外れた途端に自己というものを確立を求められる訳ですから、気の毒と言えば気の毒でしょう。教育雑誌なんかを読みあさっているような馬鹿親どもに親権を奪われてしまったのが不幸の始まりで、完全に家族制度の犠牲者ではあるんですが、そんなしょうもない理由で殺されてしまったのでは、当然こちらはたまったものではありません。

結局価値観を転換できない親権者と、そういう気も全く見受けられない学校教育によって育成されてきてしまったというのが大きな要因だと思います。なるべくしてなっている訳ですが、これを社会に問題があるとして、懐古主義的な方向に持っていくのは完全な間違い。現在の社会の方向は間違いではなく、それに対応出来ていないシステムに問題があります。その典型が家族制度であり、まずそれを解体すること。それに伴って教育制度の改善も必要でしょう。
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大阪地裁所長襲撃、4人全員の「無罪」確定

さて、この元少年、本当にはやったんでしょうかやっていないんでしょうか。そのどちらであったとしても警察の無様な失態であるという事実は動きません。もう本気で自白だけを頼りに逮捕するようなそういう愚かな真似は止めて欲しいものです。もし、どうしてもそうしなければならないなら、その取り調べの正当性を確実に担保するために、完全な録画を行うべきでしょう。それが取り調べの正当性を確保する証拠になるはずです。ましてや相手が少年である訳ですから、その辺りは徹底して行われるべきで、今更自白を強要されたなどと言われ、裁判では負け、挙げ句損害賠償請求までされる始末。

ぶっちゃけこんな損害賠償に税金使って欲しくないんですけどね。取り調べの全ては録画記録されるということを完全義務化するべきでしょうね。記録が無かったり不完全だった場合は取り調べ内容は、証拠能力を完全に失うって事で良いと思います。

真犯人が釈放されたというのも相当な問題ですが、逆の場合はそんなレベルでは到底及ばないほど致命的な問題です。何せ、無罪の16歳を逮捕し、5年間も拘束しつつ、事実と異なった供述をしてしまうほど精神的に追い詰めていた訳ですからね。もうこの人の面倒を一生見てやる位が責任なんじゃないかって気がします。いや、税金でやられても困りますがね。こんな間違いは絶対にあってはならない。これだけは絶対です。裁判制度にもかなりの問題があると思いますが、そうまでして犯人をでっち上げようとする警察のメンタリティに大きな問題があると思います。

自分達は暴力組織なんだという自覚が全く足りていないってことなんでしょうね。それが無い以上、警察は市民の敵にしかならないということを彼等は知る必要があると思います。
橘木俊詔教授が問題提起
「格差固定化の回避には教育政策が不可欠」


―格差の固定化を避けるために国がすべきことは?

2つある。1つは、高所得者から高い税金を取って低所得者に再分配する方法。だがこれは高所得者からの反対が強いだろう。

 もう1つは、よい教育を受ける機会の平等を図ること。奨学金制度の充実や公立学校の育成が必要だ。日本はどちらかの選択をすべきだが、どちらもなかなか難しいことは確かだ。


どちらも、両方やったとしても不十分。やるべき事は家族制度を解体することそれだけでこんな程度の問題は簡単に解決します。なぜ問題の根元が明確なのにそこを聖域としてしまうのかがさっぱり理解出来ない。社会に於いて機会の平等を最も阻害している要素は家族制度にあるなんてことは、良く考えれば中学生でも判ることだろう。税制や教育制度を弄ったところで、本質的な解決にはならない。金持ちは金持ちなりに新制度に最も見合った手段を取るだけに過ぎないのだから。理想的な共産主義体制でも構築するという方向ならアリかもしれませんが、それにしてもこの二つでは到底不足でしょう。

更に問題なのは能力と意欲がある子が教育を受けられないこと以上に、能力も意欲も無い奴が地位や権力を継承することにあります。某国の世襲政治屋とかがその典型かもしれません。学校、特に大学は無能な奴に卒業資格を出すことが無いよう徹底的な指導をするというのは必要でしょう。少なくとも無能者が格差の上位に存在するということが無くなれば意識としては相当報われるものがあると思います。

けれど、この例に見るようにそれで格差がなくなることはありません。格差の根底が家族制度にある以上、それが存続している限り階層固定化は絶対に無くなりません。これまでも何度も書いていますが、家族制度は既に役割を終えています。継続することに何の意味もありません。今すぐにでも解体するべき腐りきった制度です。
俺のような奴は死んだ方がマシだと考えてる人には死んで欲しくない。

社会の理想型として、あるいは当面の目標として、方向は間違っていないと思います。けど、それを国家という枠組みに収めてしまおうと最後にするから、歪んでしまっているように思えます。実際話の途中では、社会とか共同体とかの表現を使っているのに、それが最後には国に飛躍してしまっています。実は、この形式は個人が社会に還元するという考え方だけじゃなくて、個人主義を純化していっても同じ内容に帰結することになります。それは

社会が無ければ人は無く、人が無ければ社会も無い


ということを認識できれば、自ずとそこに対する関係性をどうするべきなのかというのを考えざるを得ないからです。けれど、社会、特に国家というものを先に定位させると、その国家に如何に従順に帰属するかという要素が発生します。その行動基準、選択基準は国家が、つまり権力者が定めたものになり、その基準で貢献が認められるか否かが判断されることになります。つまり少なくとも一部の人間に対しては「趣味の一貫で何か出来ればよい」とはならなくなってくる訳です。

「先人たちが民衆に課すハードルを高く設定しすぎ」たのは何故かというと、ハードルの高さを他人の基準に任せたからに他ならない訳です。ハードルの高さは自由でどんなに低くても構わないというなら、ゲスだろうがクズだろうか認めなければならないということになる。けれど、国家にはそれは出来ない。だから国家という基準を想定した瞬間にこの理屈は成立しなくなります。

個人主義は社会へ貢献しないというのは、勘違いでしかありません。むしろ個人であるということの認識を強めれば強めるほど個人は社会に対し積極的かつ主体的に関わるしかなくなります。国家も村も家も家族も無い個人はその社会の要員として生きるしか無いとすぐに気付くでしょう。そこでその個人に求められるのは、自らの言動に応じた責任を必ず負うという原則のみという構造が出来上がれば、ここで書かれているような状況の実現可能性が出るかもしれません。

国家は人間を従属させることは出来ても、人間が国家を構成することは出来ない。できたとしても、非情に困難で未だ成功例は無い。それが国家という形式が出来てから現在までの歴史で証明されたことでしょう。
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